2012年12月25日

●「漁業交渉をめぐる日韓の駆け引き」(EJ第3455号)

 韓国の大統領選挙に、保守与党セヌリ党の朴槿恵氏が当選しま
したが、折しも日本では安倍総裁率いる自民党が衆院選に大勝し
安倍政権が誕生しようとしています。
 「歴史の巡り合わせ」というべきか、2人は、安倍氏の祖父が
韓国重視の姿勢をとった岸信介氏であり、朴槿恵氏は日米の関係
を重視し、日韓交渉をまとめ上げた朴正煕大統領の長女であると
いう間柄です。両国関係の改善には期待できるものがあります。
 さて、日韓交渉で最大の難関は、「竹島領有権」の問題です。
これに密接に関連するのは「日韓の漁業問題」です。まず、この
問題から考えてみることにします。
 河野一郎氏が日韓交渉を裏の交渉でまとめようとして決意し、
交渉をスタートさせた1964年、表の交渉は4月の時点で暗礁
に乗り上げ、中断していたのです。日韓会談は、朴政権の誕生に
よって1961年10月に開始されたのですが、双方の主張の隔
たりが大きく、漁業問題を扱う農相会談は、1964年4月6日
に決裂していたのです。当時の韓国の主張は次のようなものだっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    平和線(李承晩ライン)を基礎として40マイル
―――――――――――――――――――――――――――――
 はっきりいってこれは滅茶苦茶な話です。こんなことを主張し
ていれば、永遠に日韓交渉はまとまるはずがないのです。そうい
うこともあって、少しでも早く日韓交渉を結びたい朴正煕大統領
は、1963年6月の段階で、日本側が提案する次の案に同意し
ていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  李承晩ラインを撤廃し、自国の沿岸の基線から12マイル
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このことが表沙汰になったら大変なのです。そのため
日韓交渉ではどうしても裏交渉が必要になるのです。何しろ連日
日韓交渉反対のデモが起きていたからです。中でも朴政権が恐れ
ていたのは、次のことで国民から糾弾されることです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       わずかな銭のために平和線を売る
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、国内世論を納得させるのは、容易なことではなかった
のです。韓国の農林部と国防部は、日本に譲歩するのは絶対反対
であり、あくまで平和線を守れと主張していたのです。1963
年5月10日付の外務部(外務省)の「平和線に関する広報策建
議」と題する資料には、次のように書かれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国内世論は、韓日の懸案事項のなかでも漁業、平和線問題には
 必ずしも同調的とは判断しがたい。この機会にとりあえず広報
 案を実行し、政府の立場にたいする国民の理解ないし支持を促
 すことが必要である。有力紙の記者を平和線海域および南海岸
 の漁村に派遣してもらい、「平和線を完壁に守ることはもとも
 と不可能で、経済的観点からみても平和線の存続は必ずしも有
 利ではない。農漁村の発展は、平和線の維持を前提とするので
 はなく、農漁村の近代化と市場開拓が前提となる」という趣旨
 の結論を書いてもらう、またはそういう結論に誘導する記事を
 数回にわたって書いてもらう。また、時機を見て、学界の著名
 人士に、平和線は国際法上、難点が多いとの趣旨の文章を発表
 してもらう。──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、韓国の外務部は、平和線、すなわち李承晩ラインは広
大なる海域であり、これを守るのは事実上不可能であって、経済
的に考えても得策ではないとし、中央情報部と連携して農林部と
国防部を押し切ったのです。
 河野一郎氏が日韓裏交渉に乗り出してから、河野・T間で何が
どのように決まり、最終的に締結にいたったかを明確に示す記録
は何も残っていないのです。しかし、裏交渉が始まってから、急
速に物事が決まり出したことは確かなのです。
 1965年2月に椎名外相が韓国を訪問していますが、その時
点で日韓の漁業交渉において決定していた大枠は次の通りです。
韓国の沿岸に基線をひき、そこから12マイルを韓国の専管水域
とすること。李承晩ラインは撤廃するが、専管水域の外側から李
承晩ラインまでの海域に何らかの日韓共同規制区域を設ける──
これらのことが決定されていたのです。
 とくに解決に大きく寄与したのは、韓国の専管水域の外側から
李承晩ラインまでの海域に共同規制区域を設けるというアイデア
です。実はこの基本プランを提案したのは、そもそも平和線の提
案者である金東祚駐日大使であったのです。
 当初この水域は「共同漁労区域」と名づけられていましたが、
後に「共同漁業資源調査水域」と命名され、さらにわかりやすい
ものになったのです。この共同漁業資源調査水域の設定が、なぜ
漁業交渉の締結に大きく貢献したかについては、当時の外務長官
李東元氏の回顧録の記述を見れば明らかです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉にも、1951年に平和線を立案した金東詐が出したこの
 「共同漁業資源調査水域」のアイディアは、両国にとって最善
 の妙手であった。この調査水域は漁業交渉の妥結と同時に自動
 的に発効するが、それは両国がそれぞれ有利に解釈できる余地
 を残していた。つまりわれわれは、国民に「調査水域」と名称
 を変えただけで、平和線は存在すると説得できるし、日本は平
 和線(李承晩ライン)の名前が消えたのだから、そのようなも
 のは存在しないと釈明できる。どちらともとれる便利な策だっ
 た。    ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 交渉は終盤までもつれにもつれたものの、表の交渉に加えて裏
の交渉が功を奏し、1965年6月22日に締結されたのです。
                 ── [日本の領土/59]

≪画像および関連情報≫
 ●韓国の李承晩が日本海に一方的に引いたライン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1952年に入ると日本の漁民らは、4月28日を指折り数
  えて待った。米サンフランシスコで日本が連合国側と第二次
  世界大戦終結のため1951年9月8日に締結した講和条約
  (戦争を終わらせるための条約。平和条約)が、その日に発効
  するからだった。日本を占領した米国のダグラス・マッカー
  サー将軍は、日本の漁民らが本土周辺の決まった線を超えて
  操業することができないようにした。「マッカーサー・ライ
  ン」と命名されたこの線は、講和条約発効と同時に廃止され
  ることになっていた。1952年1月18日。100日後に
  は日本海は日本漁民らの畑になるところだった。まさにこの
  日、海の向こうの、戦火に包まれた大韓民国の臨時首都釜山
  から、青天の霹靂のようなニュースが飛び込んできた。大韓
  民国の李承晩大統領が、「確定した国際的先例に基づき、国
  家の福祉と防御を永遠に保障しなければならない要求によっ
  て」、海岸から50〜100マイルの海上に線を引き、「隣
  接海洋に対する主権宣言」を行なったのだ。
  http://blogs.yahoo.co.jp/windows_user2011/3454194.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

李承晩ライン(平和線).jpg
李承晩ライン(平和線)
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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