合い、決着をつけたのは金鍾泌氏です。1962年11月12日
──この合意は韓国民にとって「屈辱外交」として金鍾泌氏に激
しく反発したのです。このとき、金鍾泌氏の身分は星1つの「准
将」、すなわち軍人だったのです。
本当は、金鍾泌氏は日本との大きな外交案件を成就させており
本来なら大成果なのですが、当時から韓国では、日本に妥協する
政治家に対して強い批判をする慣習が生まれていたのです。
そこで、朴正煕議長は金鍾泌氏のすべての役職を解いて、外国
に逃がしています。1963年2月20日のことです。共和党結
党の前日のことです。
1963年10月15日に朴正煕議長は、大統領選に当選し、
金鍾泌氏は韓国に戻されます。そして11月26日の総選挙に責
任者として選挙戦の総指揮を取ったのです。その結果、175議
席中110議席を共和党が獲得する大勝利になったのです。そし
て、12月2日に金鍾泌氏は共和党議長として、政界に復帰する
ことになったのです。
そして金鍾泌共和党議長は、再び日韓外交を行うことになった
のですが、そのとき金鍾泌議長が決めていた対日外交の作戦とい
うものがあります。
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1.池田首相、大平外相をはじめとする日本政府首脳と自民党
の実力者に対し公式に表敬訪問する。
2.表向きの接触相手は大野自民党副総裁とするが、実質的な
交渉相手は前尾幹事長に一本化する。
3.池田首相が決断を下せないときは、佐藤栄作、河野一郎両
氏を利用して、首相に圧力をかける。
4.とくに河野建設大臣とは極秘裡に会談を行うこととし、河
野氏の面目が立つよう十分配慮する。
──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
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この金鍾泌共和党議長の対日交渉の計画書には、2つの意義が
あるとロー・ダニエル氏は指摘しています。
第1は、この時点で「河野一郎」という名前がはじめて登場し
ている点です。本来の韓国の交渉相手は赤城農相のはずでしたが
なぜか建設相の河野一郎氏が重視されていたのです。河野氏が一
歩前に出て、大野副総裁が一歩後ろに下がった感じです。
第2は、実質的な交渉相手を前尾繁三郎氏に一本化したことで
す。前尾氏は池田首相の信頼が厚く、大平正芳氏が所属した宏池
会の巨頭であったのです。
金鍾泌共和党議長は、対日国交正常化のスケジュールとして、
「3月妥結/4月草案作成/5月調印」の線で大野副総裁と合意
していたのです。しかし、そのときソウルでは、とんでもないこ
とが起きていたのです。
1964年3月9日、韓国の野党は連合して「対日屈辱外交反
対闘争委員会」を結成し、次の3つのことを求めて、大規模なデ
モが展開されていたのです。
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1.韓日会談の中止
2.日本の反省要求
3.民族精神の高揚
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韓国はいつもこれなのです。全国的な運動が巻き起こり、3月
21日にはそのデモはソウルで頂点に達したのです。それは、李
承晩大統領を退陣に追い込んだときのうねりを感じさせるもので
あり、朴政権は強い危機感を抱いたのです。
しかし、デモの先頭に立った学生たちは、正面向かって朴政権
を批判できなかったのです。朴軍事政権に強い恐れを抱いていた
からです。「まだ話し合いの余地がある」と感じた朴大統領は、
3月26日に東京で交渉中の金鍾泌共和党議長に対して帰国を命
じたのです。
それに加えて朴大統領は学生の代表を青瓦台(大統領府)に招
き、対話の場を設けたのです。そのとき学生の代表は、大統領に
対し、次のような要求を突き付けたのです。
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「李承晩ラインをなぜ撤廃するのか」
「なぜ公式チャネルを使わず秘密会談をするのか」
「国民が反対するのになぜ韓日会談を強行するのか」
「請求金額が小さすぎるのではないか」
「金・大平メモの詳細を公開せよ」
──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
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朴大統領は学生の質問に誠実に答えたが、学生の怒りは収まら
ず、1964年6月3日、野党の指導者が仕掛けたデモによって
約1万2千名の学生がソウル市内のあらゆる場所で警官隊と衝突
するという事態に発展したのです。「6・3事態」です。
6月3日の午後、朴大統領は緊急閣議を開催し、非常戒厳令宣
布の検討をはじめたのです。しかし、夜になっても結論が出ず、
駐韓米国大使がヘリで大統領府を訪れ、朴大統領を説得して、午
後9時40分に戒厳令が宣布されたのです。
この戒厳令は7月29日まで続き、多くの学生と大学教授、言
論人が逮捕されたのです。ここにいたって朴大統領は、金鍾泌共
和党議長を外すしかないと決断したのです。折しも金鍾泌共和党
議長が表向きの交渉相手としてきた大野伴睦氏は5月29日に死
去し、金氏は6月5日に共和党議長を辞任したのです。
金鍾泌氏の辞任と、そのカウンターパートである大野伴睦氏の
死去によって、それまでの日韓ロビーである大野伴睦─金鍾泌ラ
インは消滅することになったのです。しかし、朴大統領は日本と
の国交正常化を諦めるつもりはなく、新たな日韓ロビーの構築に
取りかかるのです。「風車、風が吹くまで昼寝かな」──朴/金
の関係を読んだ歌です。 ── [日本の領土/54]
≪画像および関連情報≫
●李明博大統領は「6・3事態」の首謀者の一人
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第17代大統領であるハンナラ党の李明博氏は、屈曲の多い
大韓民国の近・現代史とともに歩んできた。多くの60代が
そうであるように、日帝植民地時代と独立、朝鮮戦争と自由
化軍事独裁政権と産業化、民主化と世界化に続く激動の波を
乗り越えてきた。苦難と奇跡の歩みは「神話」とも評されて
いる。李氏は日帝占領下、1941年に日本の大阪で生まれ
た。貧しさのため中学入学当時から露店商などで生活費と学
費を稼いだ。大学時代には韓日会談反対闘争(6・3事態)
の首謀者として、西大門刑務所に6ヵ月服役した。そうした
人生が逆転するのは、現代グループ創業者の故鄭周永名誉会
長に出会ってからだ。
http://coralitem.blog58.fc2.com/blog-entry-389.html
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大野 伴睦/前尾 繁三郎


