2012年12月06日

●「竹島を日本領に戻した理由」(EJ第3443号)

 サンフランシスコ講和条約の初期の草案──1947年3月時
点のなかで、日本の領土についての記述と朝鮮放棄についてのそ
れを全文で次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪日本領土の範囲≫
 日本の領土的範囲は、1894年1月1日現在のそれとする。
 ただし、第2条、第3条・・・に示された変更を加える。すな
 わち、その範囲は、主要島である本州、九州、四国及び北海道
 並びにすべての沖合諸小島を含む。沖合諸小島は、千島列島を
 除き、鹿児島県下の琉球諸島、孀婦岩までの伊豆諸島、瀬戸内
 海の島々、礼文、利尻、奥尻、佐渡、隠岐、対馬、壱岐及び五
 島列島を含む。
 ≪朝鮮の放棄≫
 日本はこれによって、朝鮮及び済州島、巨文島、ダジュレー島
 (鬱陵島)及びリアンクール岩(竹島)を含むすべての沖合小
 島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する。
    ──「日本史特殊研究レポート」/「竹島の取り扱い」
     http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 講和条約の草案は、米国務省内で、1949年11月までに5
回書き換えられています。上記はその最初の草案です。当時米国
務省内では、日本に関して詳しい知識を持つ者は皆無であり、そ
のために日本に派遣されている国務長官特別顧問の発言は強い影
響力を持っていたのです。
 まして、竹島(独島)は島というよりも小さい岩礁であり、そ
んな島嶼のことを国務省の役人が知るはずがなかったのです。推
測ですが、韓国系の人間による情報提供があったのではないかと
考えられます。
 それはそれとして、この第1回草案においては、竹島は韓国領
となっています。マッカーサーラインもこの考え方に基づいて設
定されたものと思われます。ところが、最終の1949年11月
の草案においては、竹島は韓国領から外されているのです。国務
省が考え方を変えたからです。
 これに関して影響力を発揮したのが、米国駐日政治顧問のウイ
リアム・シーボルトです。当時日本政府と最も接触を持つ米国人
の一人であり、実質的な初代駐日大使です。
 そのシーボルトは、1949年11月14日付の電報で、日本
担当のバターワース国務次官補に対し、「竹島」について再考を
求めたのです。これは、11月19日付の文書でも正式に伝えら
れているので、それを次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リア
 ンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本
 に属するものとして明記されることを提案する。この島に対す
 る日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖
 合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係の
 ある問題として、安全保障の考慮から、この島に気象及びレー
 ダー局を設置することが考えられるかもしれない。
          ──前掲「日本史特殊研究レポート」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書を見てもわかるように、竹島の日本領化は日本のため
というよりも、ソ連に対する米国の安全保障上の備えとして必要
であったのです。それは「安全保障の考慮から、この島に気象及
びレーダー局を設置する」によって明らかです。ソ連との冷戦は
既にはじまっていたのです。
 当時の米国の国家安全保障会議は、共産圏諸国との防衛ライン
を次のように設定していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、
 沖縄をへてフィリピンにいたるラインである。この防衛ライン
 を超えた場合、アメリカは武力をもって阻止する。
      ──1950年1月/アチソン国務長官/孫崎亨著
      『戦後史の正体/1945〜2012』/創元社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連のスターリンと北朝鮮の金日成が、この情報を得て米軍が
撤退しつつある南朝鮮、すなわち韓国を攻めても米軍は参戦しな
いと読んだのです。しかし、マッカーサーの考え方は違っていた
のです。「朝鮮半島を共産圏にしてはならない」という強い考え
方を持っていたのです。
 マッカーサーは、戦争前に日本の要人から、日本が朝鮮半島に
進出したのは侵略のためではなく、日本の安全保障のためである
ということを何度も聞かされていたのですが、そうは考えていな
かったのです。
 しかし、日本に来て、改めて安全保障上の問題を考えてみたと
ころ、日本という国にとって、朝鮮半島の安定が安全保障の要で
あることがよくわかったのです。しかし、北朝鮮軍が韓国に攻め
込んだという情報を聞いたとき、日本の降伏からたったの5年で
平和が破られたことにマッカーサーは衝撃を受けたといいます。
 朝鮮半島における米軍の全指揮権を国防総省から付与されると
マッカーサーは救援の英軍と一緒に北朝鮮に対し、本格的反攻に
打って出たのです。そして、成功率0・002%といわれる仁川
上陸作戦を国防総省の反対を押し切って敢行し、ソウル奪還に成
功したのです。
 しかし、国防総省の反対を押し切って作戦を遂行し、ソウルを
奪還したものの、中国人民軍の参戦を招いたとして、1951年
4月、マッカーサーは解任され、日本を離れるのです。
 これらは、すべてサンフランシスコ講和条約の前に起こってい
ることなのです。したがって、その草案づくりに改めて日本の安
全保障という観点から再考が行われ、竹島は日本領に含められる
ことになったのです。しかし、韓国側の反発は激しく、簡単には
収まらなかったのです。      ── [日本の領土/47]

≪画像および関連情報≫
 ●昭和天皇とマッカーサー連合国最高司令長官の会談
  ―――――――――――――――――――――――――――
  昭和天皇が敗戦国の国家元首としてマッカーサーが滞在する
  アメリカ大使館に出向き会談した際、マッカーサーは、会談
  の際の昭和天皇の真摯な姿勢に感銘を受ける。昭和天皇は、
  命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑
  も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国
  民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。マ
  ッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き
  受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、
  「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄
  関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和
  天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。後にも「あ
  んな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

仁川上陸作戦のマッカーサー司令長官.jpg
仁川上陸作戦のマッカーサー司令長官
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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