軍綱吉は、日本人の鬱陵島への渡航を禁止したことは既に述べた
通りです。これによって江戸時代においては、日本人の鬱陵島へ
の渡航は止まっていたのです。
しかし、明治時代になると、朝鮮半島へ往来する日本人が急増
し、鬱陵島に渡航する日本人も多くなったのです。当時の李氏朝
鮮は、自国民の鬱陵島への上陸を禁止していたので、どのくらい
日本人が島に来ているのか把握するのが遅れたのです。
しかし、日本人の鬱陵島への渡航は止まらなかったのです。渡
航の目的は、ケヤキの伐採であり、島に何泊もして作業を続ける
日本人も多くいたのです。
当時は、国の領海という概念が明確ではなく、西欧列強はいろ
いろな口実をつくって、軍艦を派遣して力で自国に有利な条約を
結ぶという砲艦外交が平然と行われていたのです。
日本と朝鮮の間でもそういう紛争は起こっているのです。その
ひとつに「江華島事件」があります。1875年9月のこと、日
本の軍艦が海路測量の名目で朝鮮の領海を犯し、江華島の近くに
迫って漢江をさかのぼろうとしたところ、江華島砲台の守備兵が
砲撃を加えてきたのです。そのため、日本軍が砲台を攻撃して要
塞に火を放って引き上げた事件です。
この結果、日本政府は江華島事件の賠償を要求するという名目
で、黒田清隆と井上馨を全権とする使節団を載せた軍艦を送り込
んで、1976年2月に日朝修好条規(江華島条約)を締結した
のです。その内容は、日本有利のいわゆる不平等条約であったと
いっても過言ではないのです。
内容としては、日本が朝鮮に対して治外法権をもち、輸入関税
は無税として朝鮮の関税自主権を奪い、朝鮮の鎖国を解いてプサ
ンと元山の2港を開かせるというものだったのです。日清戦争の
前の日本のアジア進出の態度が最も露骨だった頃の朝鮮進出事件
であり、日朝修好条規は朝鮮を搾取していくための不平等条約の
典型だったといえます。
こういうことがあると、政府がいくら禁止しても鬱陵島に渡航
する日本人は止まらなくなるものです。1881年5月のことで
すが、鬱陵島を巡察していた同島の掃討官がケヤキを伐採してい
る7名の日本人を発見し、本国に報告したのです。
報告を受けた朝鮮政府は、日本の外務卿である井上馨宛てに抗
議文書を送ったのです。その根拠として189年前の江戸幕府の
決めた鬱陵島への渡航禁止措置を使い、厳しい処置を求める内容
の文書です。
井上馨外務卿は、事実を調査して対応措置を取ると約束したの
ですが、鬱陵島への日本人の渡航は止まらず、島に渡る人数は増
えて、数百人に上る事態になったのです。こういう状況を受けて
1882年12月から朝鮮は鬱陵島開拓令を公布し、鬱陵島への
移住が奨励されるようになったのです。
その後も朝鮮政府の抗議は続き、遂に日本政府は鬱陵島渡航禁
止を各地方長官に通達するとともに、1883年9月には、内務
書記官を乗せた船を鬱陵島に送り、そのとき、島内に居住してい
た254人全員を日本に連れ帰ったのです。
1894年8月に日清戦争がはじまると、当然のことながら、
日本海軍は東シナ海にどんどん出て行くようになります。そして
ロシアの動きなどを監視するため、韓国東岸、鬱陵島に監視所を
置き、海底ケーブルを設置を進めたりしているのです。
もともと日清戦争も日露戦争も「朝鮮半島の安定」を目指して
行われたものです。なぜなら、それが日本の国防上のかなめにな
るからです。もし、朝鮮半島に他国の侵略を目指す国ができると
それはそのまま日本にとって大きな脅威になります。
当時その恐れがあったのが清国(中国)であり、ロシアだった
のです。ロシアは清国に近づき、朝鮮半島を狙い、いろいろなこ
とを仕掛けてきたのです。日清戦争と日露戦争が起きたのは、そ
のようにして、朝鮮半島の安定が脅かされたからです。
現在、朝鮮半島は安定していますが、中国が自国の海洋権益を
確保するため、尖閣諸島周辺で領土侵犯を繰り返し、緊張をはら
んできています。もし、これがエスカレートして軍事紛争が起き
るような危機になると、日本としては相応の措置をとらざるを得
なくなると思います。当然のことながら、自分の国は自分で守ら
なければならないからです。
さて、日清戦争が終り、日本と清国の間で下関条約が締結され
たことにより、朝鮮は清国から独立し、「大韓帝国」と国号を改
めたのです。しかし、そのウラでは韓国へのロシアの干渉がある
ことは既に述べた通りです。
ところが、大韓帝国になっても日本人の鬱陵島渡航は止まらな
かったのです。そこで大韓帝国政府は、1900年5月31日に
内務官僚の兎用鼎を日本に派遣し、日本側の調査員と一緒に鬱陵
島の実態調査をやったのです。
このときの実態調査は、「鬱陵記」という報告書にまとめられ
ていますが、1883年9月に強制的に254人を日本に連れ戻
したのにもかかわらず、調査当時、鬱陵島には144人の日本人
がいて、ケヤキの伐採を行っていたのです。このように、何回禁
止令を出しても渡航する者が後を絶たなかったのです。政府も本
気で禁止を徹底させていたとは思えないし、韓国政府の管理にも
問題があったのです。
そこで韓国政府は、1900年10月25日に「勅令41号」
を発して、鬱陵島の管理の強化を図っています。鬱陵島を鬱陵部
に昇格させ、郡守を常駐させ、行政権の強化を図ったのです。し
かし、日露戦争の前のことであり、それが完全に徹底されること
はなかったのです。
このように鬱陵島には、日本人が深くかかわっているのです。
それだけにこの島には、現在の竹島に関する情報が豊富にあると
考えられます。しかし、そのためのトラブルも多く、2011年
8月1日に自民党議員が鬱陵島に渡航しようとして訪韓したさい
韓国に入国を拒否されたのです。 ── [日本の領土/35]
≪画像および関連情報≫
●鬱陵島視察計画の自民3議員、韓国空港で入国拒否
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韓国政府は2011年8月1日、日韓が領有権を主張する竹
島(韓国名・独島)に近い韓国の鬱陵島訪問を計画してソウ
ルの金浦空港に到着した自民党の国会議員3人に対し、入国
を拒否した。韓国入管当局に入国を認められなかったのは、
自民党の新藤義孝衆院議員、稲田朋美衆院議員、佐藤正久参
院議員で、竹島に最も近い鬱陵島を視察する計画だった。当
初は平沢勝栄衆院議員も参加する予定だったが、多忙を理由
に取りやめている。新藤氏は、旧日本陸軍の栗林忠道大将の
孫にあたる。公式ウェブサイトの動画メッセージで、韓国は
日本の領土の一部を不法に軍事占拠していると主張し、騒乱
を意図してはいないが、韓国国民に我々の怒りを示したいと
語っていた。稲田氏は弁護士で、1937年の南京大虐殺に
懐疑的な立場を示してきた。佐藤氏は元陸上自衛官で、20
04年にイラクに派遣されている。3議員の訪問にあたって
金浦空港では、韓国の活動家らが竹島の領有権を主張するプ
ラカードを掲げ、3議員の写真を焼くなどして抗議した。
http://www.afpbb.com/article/politics/2817524/7590875
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自民党議員の鬱陵島訪問反対デモ


