ロシアは最初からそれを守ろうという気はなく、清国と組んで、
次のような密約を結んでいたのです。この密約は、当時の駐清ロ
シア公使カシニーの名をとって、「カシニー条約」と呼ばれてい
るのです。
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東アジアのロシア領、清国及び朝鮮半島に日本軍が侵入して
きた場合、露清両国はすべての陸海軍事力をもって、相互に
援助し合い、これを殲滅する。そのさい、ロシア軍艦の活動
を助けるため、清国は自国の港湾をことごとく開放する便宜
を図るものとする。 ――露清密約より
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さらにロシアは日本に対する裏切り行為を続けます。ロシアの
ロバノフ外相は、今度は駐露朝鮮公使を呼びつけて、今度は朝鮮
と次の3つの密約を結んでいるのです。
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1.韓国王はロシアにおいて保護する
2.ロシアから軍事・経済顧問を派遣
3.日本との有事における武力の援助
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日本という国は歴史的に見ても、外交が下手な国であり、それ
は現在も続いています。外交は情報戦であることがまるでわかっ
ていないのです。ドイツなどは、カシニー条約の時点で情報を把
握していたのですが、日本はその動きに、まったく気づいていな
かったのです。
結局日本がロシアと朝鮮の密約を知ったのは、その密約に基づ
いてロシアの軍事顧問団がソウルに到着したのを知ったときなの
です。まさにツー・レイトです。1897年7月のことです。
そのとき韓国王は、乙未事変以来、ロシアの公使館にいたので
すが、この密約によって、ロシア公使館を出て、国名を「大韓帝
国」、さらに君主を「皇帝」とするとして、清国からの独立を宣
言したのです。ロシアという強力な後ろ盾で韓国は清国から独立
したのですから、日本にとっては最悪の事態です。なぜなら、朝
鮮半島が事実上ロシアの手に委ねられてしまったからです。
当時ロシアを含む西欧列強にとっては、戦争の終結時が最も領
土を取りやすいので、まるで獲物を狙うハイエナのように戦況を
注視し、終わるや否や動くのです。日清戦争のときも、とくにロ
シア、ドイツ、フランスなどが戦況を注視しており、日本が連戦
連勝するのを見て、清国が内外ともに衰退しているのを見てとっ
たのです。
清国からは収奪できるものがたくさんある。日本に一人占めさ
せてはならない──そう判断すると西欧列強は、一斉に動き出し
たのです。しかし、この時点で日本は、領土を奪うのが目的では
なく、日本の安全保障のために朝鮮半島を守ろうとしただけのこ
となのです。
日清戦争に関してとくに露骨に行動したのは、ロシアとドイツ
です。1897年11月のこと、何の前触れもなく、ドイツの艦
隊3隻が三東半島(シャントン)に現われたのです。そして、海
兵隊600人が膠州湾に上陸し、青島(チンタオ)付近一帯を占
領してしまったのです。理由は、ドイツ人宣教師が何者かに殺害
されたというのがその根拠ですが、もちろん単なる口実です。
このドイツの行動を見てロシアは、同じ年の12月15日、艦
隊6隻で遼東半島の旅順・大連に侵入し、旅順港をそのまま占領
してしまったのです。自分たちの欲しいところは押さえておくと
いう行動です。清国としては、頼りにしていたロシアが清国のた
めに何もしてくれないことをここで悟るのです。
それどころではないのです。ロシアのあくどさはドイツのはる
か上を行くものだったのです。清国がドイツに三東半島の租借を
認めたことを知るとロシアは、宰相の李鴻章を呼び出し、脅しを
かけると共に巨額のワイロを贈って、清国から遼東半島の租借権
とハルピンから大連までの東清鉄道の敷設権に関するさらなる権
利を獲得したのです。
この場合、ロシアの要求は、単に鉄道を敷設するだけでなく、
その線路敷はもとより、線路の両側や駅の周辺付属地の主権も租
借地同様にロシアに帰属する−−そういう無茶苦茶な要求を呑ま
せたのです。ロシアを頼りにしていた清国はここで大きなショッ
クを受けることになります。
日本の北方領土はそのロシアに占拠されているのです。もちろ
ん現在のロシアと昔のロシアは違いますが、DNAは同じです。
この国は一度手に入れた領土はよほどのことがない限り手放すこ
とはない。ソ連(ロシア)としては「領土は戦争の終わる直前を
狙え」という日清戦争当時のセオリーを太平洋戦争の終結時にも
行い、日本から領土を奪っているのです。
日本にとって朝鮮半島の安定は、一貫して国土防衛上重要であ
り、つねに強い関心を持っていなければならなかったのです。こ
の考え方を当時の日本に教えたのが、英国の名提督として名高い
キャプテン・ドレイクの次の考え方です。
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日本は朝鮮半島と満州に足場としての港を確保し、大陸側の港
の背中に国防線を引くべし ――キャプテン・ドレイク
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しかし、ドレイクのこの提言は、朝鮮半島や満州を領有すべし
とはいっていないのです。いずれにしても、昔も今も朝鮮半島情
勢は日本の国防に大きく影響しているのです。
それから日本とロシアの間には、いろいろなことがあったので
すが、1904年2月6日、日本はロシアと国交を断絶し、2月
10日にロシアに宣戦布告したのです。そして、ロシアと交戦状
態に入った1年後の1905年2月22日に、日本政府は竹島を
島根県に編入しています。それには、どのような経緯があったの
でしょうか。韓国はそれをどのようにとらえたのでしょうか。来
週はそのことについて書きます。 ── [日本の領土/34]
≪画像および関連情報≫
●キャプテンドレイク/世界史小ネタ第32回
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ドレイク船長というとやり手の海賊というイメージが強いで
すね。実在の人物で、16世紀後半、イギリスの海賊兼海軍
司令官として活躍しました。海賊が司令官に出世した、とい
うより、海賊と海軍にそれほど大きな違いのなかった時代の
お話です。1580年、重装帆船に乗って、ドレイクは史上
2番目の世界周航をやってのけました。アメリカの最南端マ
ゼラン海峡を苦労して通過すると、そこは格好の猟場。チリ
やペルー沿岸のスペイン植民地を襲撃して大量の銀を略奪。
途中イギリス人としては初めて香料諸島に達し、6トンもの
クローブ(貴重な香辛料)を手にしました。プリマス港に帰
り着いた彼を出迎えたのはエリザベス一世。「よくぞスペイ
ン船を襲った」と、彼に「ナイト」の称号を与えたことは有
名な話。以来「サー・フランシス・ドレイク」と呼ばれるよ
うになりました。ちょっと余談ですが、略奪された船や船員
はどうなったか。積み荷が奪われた後、マストが叩き折られ
て乗組員は海に放置されるというケースが多く、全員虐殺と
いうことはあまりなかったようです。
http://history.husigi.com/VHv2/koneta32.htm
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キャプテン・ドレイク


