の結果、日本が清国から得られるはずのものは、日本国民を十分
に満足させる内容だったのです。条約の要点は6つありますが、
とくに重要なものは次の2つです。
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1.清国は朝鮮の完全無欠なる独立を確認すること
2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲
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1(朝鮮半島の中立)に関しては、安全保障上日本が目指して
きたものであり、日清戦争も日露戦争も、日本はそのために戦っ
たといっても過言ではないのです。これによって、ロシアの南下
を防ぐことが可能になるからです。
2の遼東半島の割譲についても、日本にとっては、ロシアの南
下を防ぐ狙いがあるのです。とくに陸軍は遼東半島の割譲にこだ
わり、海軍は台湾を求めたといわれています。なぜなら、ロシア
は冬でも凍らない不凍港を持っていなかったので、どうしても遼
東半島が欲しかったのです。ウラジオストック港は冬の間は凍結
してしまうので使えないからです。
そのため、日本としては、戦略上ロシアに不凍港を与えないよ
う遼東半島の割譲を求めたのです。不凍港を手に入れない限り、
ロシアはいくらシベリア鉄道を持っていても東アジアに勢力を拡
大できないからです。
ところが、下関条約の締結によって既得権が侵害されるとする
3国が海軍を東アジア海域に進出させ、日本に次のような勧告を
突き付けてきたのです。
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遼東半島を日本にて所有することは常に清国の都を危うくす
るのみならず、これと同時に朝鮮国の独立を有名無実となす
ものにして、右はながく極東永久の平和に対し、障害を与え
るものと認む。 ──ロシア・ドイツ・フランスの公使
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フランス、ドイツは巡洋艦を派遣してきただけですが、ロシア
は巡洋艦に加えて戦艦まで繰り出し、さらにロシア陸軍約3万が
臨戦態勢をひき、ロシアとドイツの艦隊が合同演習を実施するな
ど、日本に対する示威行為は露骨を極めたのです。勧告を受け入
れないなら攻撃するぞという脅しです。1895年4月23日の
ことであり、これを「三国干渉」と呼んでいます。
ちょうどそのとき、日本海軍の連合艦隊は台湾付近に遠征して
おり、陸軍野戦軍のほとんどは中国大陸の戦場にいて、日本列島
はガラ空きの状態で、とても戦えるような状況ではなかったので
す。それに伊藤博文首相は非常に弱気の人物であり、加えて明治
天皇も反対だったのです。もっともロシア、ドイツ、フランスに
しても日本と本気で戦端を開くつもりなどなかったのです。
日本政府は結果として、1895年5月4日の閣議で三国干渉
受け入れを了承し、翌日に3国の公使に通告しています。しかし
天皇の詔は、さらに5日後の5月10日に全国民に伝達されたの
ですが、国民の落胆ぶりは尋常ではなかったのです。しかし、陸
奥宗光、小村寿太郎、川上操六らは、この国民の怒りを対ロシア
戦争にうまく誘導しようとしたフシがあります。彼らはいずれロ
シアとは戦うことになるだろうと考えていたからです。
しかし、韓国宮廷はこの三国干渉の結果を見て、日本がロシア
に屈したと考えて、王后である閔妃(ミンピ)はロシアの保護を
得て、独自勢力の温存を図ろうと画策します。強い方についた方
がトクと判断したわけです。
これに対して駐韓日本公使の三浦梧楼陸軍中将は、韓国王の父
親を擁立してクーデターを起こし、首都・漢城(ソウル)の王宮
に日本人の浪人を乱入させ、閔妃を殺害してしまったのです。乙
未(いつみ)事変です。1895年10月8日のことです。
ところが、妻を殺され、実父に政権を奪われたかたちの韓国王
は、身の危険を感じて、駐韓ロシア公使ウェーバーを頼ってロシ
ア公使館に逃げ込んだのです。これによって、日本とロシアの関
係は一段と険悪化します。
この事態を重く受け止めた枢密院議員山縣有朋は、1896年
5月26日に開催されたロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式のさい
にモスクワを訪問し、ロシアの外相ロバノフと会談を行い、朝鮮
半島をめぐる次の日露議定書を作成・調印したのです。
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1.朝鮮の財政問題に関しては日露共同で当たること
2.朝鮮軍が組織されるまでは日露同数の軍隊を置く
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日本は、ロシアに直接領土を狙われる「対馬事件」や「巨文島
事件」を経験しており、いずれロシアとは戦わざるを得なくなる
として、1895年12月に開会した帝国議会において戦後10
年計画に基づく予算が成立していたのです。1895年から10
年後というと1905年になりますが、この年にはシベリア鉄道
が完成する予定の年なのです。それまでにロシアと戦えるように
する――こういう目標が立てられたのです。そして実際に、19
04年に日本はロシアと戦争をしているのです。
この綿密な計画の下に、10年の歳月を費やして軍備を強化し
て軍隊を育て、必勝の体制で来るべきロシアとの戦争に臨んでい
るのです。当時日本は国民皆兵で徴兵制の下で厳しく訓練を積ん
でおり、士官を含む立派な軍人が育ちつつあったのです。新田次
郎の小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社文庫)で有名な青森歩兵
第5連隊第2大隊の悲劇も、ロシアの厳しい寒さに耐えて戦うた
めの訓練だったのです。何しろ210名中199人が凍死すると
いう痛ましい訓練を重ねてまで、兵を鍛えたのです。最初からロ
シアとの戦争を考えての訓練だったのです。
しかし、この日本の軍備充実にロシアはほとんど関心を払って
いなかったのです。それだけ日本を完全に見下していたのです。
そのため、日本と交わした日露議定書を無視して清国と秘密協定
を結ぶなど不誠実を極めたのです。 ── [日本の領土/33]
≪画像および関連情報≫
●「八甲田雪中行軍遭難事件」とは
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事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としてい
たことが挙げられる。日本陸軍は1894年(明治27年)
の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる
厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。
こうした想定は事件から2年後の1904年(明治37年)
に日露戦争として現実のものとなった。この演習は対ロシア
開戦を目的としたもので、5連隊についてはロシア軍の侵攻
で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青
森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資
の輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的であり、弘前
第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般
に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行し
てきた雪中行軍の最終決算であった。なお、両連隊は、日程
を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知らなかった。
──ウィキペディア「八甲田雪中行軍遭難事件」
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後藤 房之助伍長の像


