2012年11月14日

●「日本、清国、ロシアの3国関係」(EJ第3428号)

 「竹島」は、1905年(明治38年)1月28日、島根県隠
岐島司の所管の島として閣議決定し、日本領になっています。日
本側は、その時点で竹島は持ち主のいない無主地であったとして
います。これに対して韓国側は、あくまで独島(竹島)は無主地
ではなく、韓国領であると主張しています。そのため、島根県へ
の編入は無効であるというのです。日本と韓国の主張を対比して
みることにします。
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 ≪日本側≫
  ・竹島は、歴史的事実に照らして、かつ国際法上も明らか
   にわが国固有の領土である
 ≪韓国側≫
  ・歴史的、地理的背景に照らしても領土所有権に関する国
   際法の通念からみても独島は韓国領土の一部であること
   に異論の余地がない
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 この問題には、日清・日露戦争が深くからんでいます。この2
つの戦争の年代を示しておきます。
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     日清戦争:1894年8月〜1895年3月
     日露戦争:1904年2月〜1905年9月
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 ここで添付ファイルを見ていただきたいのです。この絵は、当
時の日本、清国(中国)、ロシアの関係を巧みに描いています。
日本と清国が互いに釣って捕らえようとしている魚を大国ロシア
も狙っている──そのような構図の絵です。魚をよく見ると、コ
リアと書いてあります。
 日本にとっては、当時の大国である清国とロシアがともに朝鮮
半島を狙っており、もし、朝鮮半島がどちらかの手に落ちると、
日本の安全保障上きわめて深刻な事態に陥ると考えたのです。
 実は、EJでは、「日露戦争の真実」(全50回/EJ第17
07号〜EJ第1758号)を記述しています。この連載の第2
回「EJ第1708号」で、当時の日本、清国(中国)、ロシア
の関係について書いているので、引用します。
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 日清戦争の前の話ですが、清国は朝鮮を属国と考えており、ロ
 シアは朝鮮に対して強い野心をいだいていたのです。このよう
 な状況に対し日本は、自国の安全保障のために朝鮮半島の中立
 を望んでいたのです。そこで、日本は清国と力のバランスを図
 ろうとしたのですが、清国は日本の思うようにはならず、朝鮮
 に対し、宗主権を誇示しようとしていたのです。また、帝政ロ
 シアは、シベリアを手中におさめ、沿海州、満州をその制圧下
 に置こうとしていたのです。さらにその余勢を駆って、朝鮮を
 もその影響下に置こうと狙っていたのです。当時の日本から見
 れば、ロシアはもちろんのこと、清国も大国であり、強い危機
 感を感じていたのです。もし、朝鮮半島がこれら大国の属国に
 なると、日本は玄界灘を隔てるだけで、強力な帝国主義国家と
 対峙することになる――こういう事態だけは絶対に避けたかっ
 たのです。  ──EJ第1708号/2005年11月1日
http://electronic-journal.seesaa.net/article/8834006.html
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 ここで、日清戦争がなぜ起こったかについて述べることにしま
す。清国は李氏朝鮮に対して宗主権を持っており、朝鮮を属国と
みなしていたのです。そのため、何か事が起きると、朝鮮は清国
に頼ることが多かったのです。日本としては、そういうことが繰
り返されることによって、清国が事実上朝鮮を支配する構図がで
きてしまうことを懸念して、清国との間に「天津条約」を締結す
るのです。つまり、朝鮮を中立状態に置くため、力のバランスを
取ろうとしたのです。1885年のことです。
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 ≪天津条約≫
 朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国もしくはそのど
 ちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往
 復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに
 撤兵する
―――――――――――――――――――――――――――――
 そういうときに朝鮮で東学党が勃興したのです。東学党という
のは、「日本や欧米の列強を退けて義を行う」をスローガンとし
て掲げ、西学――キリスト教や儒教に対抗する朝鮮独自の学問を
目指す秘密結社「東学」が政治改革団体化したのです。
 1894年2月に、朝鮮全羅道で東学党のリーダーが指揮する
農民一揆が起こり、あっという間に全羅道一円に拡大し、5月末
には全羅道首府の全州に入場する事態になります。いわゆる甲午
農民戦争と呼ばれる戦争が起こったのです。
 この事態に動揺した朝鮮政府は、清国に出兵を要請します。こ
れを受けて清国は、一応「天津条約」にしたがって、日本には軍
を出すことを通告はしたものの、3000人の兵をソウル南方約
80キロの牙山まで進出させ、そのまま居座ったのです。
 日本としては、これを放置すると、朝鮮における清国と日本の
パワーバランスが変化し、朝鮮半島が清国の支配下に置かれてし
まうことになります。これに危機感を感じた日本は、多くの反対
はあったものの、1894年7月17日に朝鮮半島に出兵し、清
国との戦争に突入したのです。これが日清戦争です。
 時の外相陸奥宗光や小村寿太郎らは、清国の実情が既に「死に
体」になっていることを見破っており、戦争に反対する伊藤博文
総理を説得して開戦に踏み切っています。
 日本軍が圧倒的に強かったのか、清国軍が弱過ぎたのかわかり
ませんが、戦争はワンサイドに日本が勝ち続けのです。これには
世界が目を見張ったのです。そして、11月21日に難攻不落と
いわれていた旅順を1日で落とすと、清国側はたまらず、講和を
申し入れてきたのです。      ── [日本の領土/32]

≪画像および関連情報≫
 ●日清開戦と戦いの行方
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  漢城(ソウル)近くの豊島(ブンド)沖の海戦で日清両国が
  激突し、ここに日清戦争がスタートしました。そして8月1
  日になって日本が宣戦布告。さらに9月に清が朝鮮における
  拠点としていた平壌(ピョンヤン)を陥落、さらに黄海の海
  戦では、清ご自慢の北洋艦隊を撃ち破り、定遠を撃沈。さら
  に、旅順、威海衛を占領します(なお、旅順占領で大山巌の
  部隊が多数の非戦闘員を殺害したとして、ニューヨークワー
  ルド紙に掲載され、世界中から非難されます)。また、北洋
  艦隊の提督だった丁汝昌は服毒自殺をして亡くなっているの
  です。李鴻章も、さらには諸外国も「まさか清が負ける」と
  は思っていなかったようで、この敗戦は大きな衝撃を与えま
  した。同時に、日本には清に対する侮蔑の念も植え付けるこ
  とになります。福沢諭吉でさえ「文明と野蛮の戦い」とする
  など、これまで中国から影響を受け続けてきた潜在的な劣等
  感の裏返しが表れたと考えられます。
       http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu31.html
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1887年の風刺画.jpg
1887年の風刺画

posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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