2012年11月13日

●「鬱陵島と竹島の複雑な関係」(EJ第3427号)

 「竹島」というのは、どこにあるのでしょうか。
 竹島は、日本海の隠岐諸島の北西方にある「絶海の孤島」──
2島37岩礁からなる島嶼です。「竹島」は日本名ですが、韓国
では「独島(トクト)」と呼ばれています。竹島は、島根県隠岐
郡隠岐の島町に属している島ですが、現在、韓国によって実効支
配されています。
 竹島は、韓国と日本のちょうど中間にある島ですが、島根県松
江市からは約220キロ、隠岐諸島からでも160キロの距離が
あります。しかし、韓国からは215キロと日本より少し近いし
まして韓国領の鬱陵島からなら、98キロと韓国領にきわめて近
い島です。
 竹島問題を考えるとき、鬱陵島のことをよく理解する必要があ
ります。少しややこしい話ですが、この鬱陵島のことを日本では
「竹島」と呼んでいたからです。それでは、現在の竹島は何と呼
んでいたかというと、「松島」と呼んでいたのです。
 鬱陵島は、朝鮮半島から115キロの海上にあり、島の大きさ
は70キロ平方メートルです。この島は、西暦512年以来、朝
鮮の支配下にある島ですが、李氏朝鮮は、この島への渡航を禁止
していたのです。それには、次の2つの理由があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.税金逃れを防ぐこと
         2.倭寇から島民を守る
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の李氏朝鮮では、税金から逃れるため、鬱陵島に渡って暮
らす者がおり、この脱税者を防ぐため、法律で渡航を禁止したの
です。これが第1の理由です。
 第2の理由は倭寇から島民を守るためです。「倭寇」というの
は、13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸
部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊のこと
であり、「海乱鬼(かいらぎ)」と呼ばれていたのです。
 これにもうひとつの事実を認識しておく必要があります。それ
は朝鮮にとって鬱陵島は遠隔地の島であり、朝鮮政府の公船でも
渡航が困難だったのです。船に問題があったからです。
 そのため、島の監視もほとんどできない状況にあったのです。
当時の朝鮮の船に比べると、江戸時代の日本の船は、はるかに進
んでいて、朝鮮よりも距離的に遠い鬱陵島に行くことができたの
です。実はこのことは尖閣諸島についてもいえることであり、果
たして当時の中国や台湾の船で尖閣沖まで漁に行けたのかどうか
疑問なのです。尖閣諸島の海域は現在でも難所だからです。この
点については改めて検証することにします。このような理由から
朝鮮政府によるこの「無人島政策」は、1438年から1881
年まで、実に443年間にわたって続けられたのです。
 17世紀の初頭のことですが、伯耆国(現・鳥取県)米子の海
運業者だった大谷甚吉が航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱
陵島に漂着したのです。島を探検したところ誰も住んでいないの
で、新島の発見と考えて、帰国後、同志の村川市兵衛とはかって
1618年に江戸幕府(1603〜1868)から鬱陵島への渡航
許可を受けたのです。島名は「竹島」と名付けたのです。
 大谷、村川両家は、その後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟
やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島の経営は
実に78年間続けられたのです。この鬱陵島に渡るには、隠岐島
から「松島」という島──現在の竹島を中継地として使っていた
のです。大谷、村川両家がこの松島において、漁猟地やアシカ猟
を行っていたという記録が残っています。
 ところがあるとき、江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師たちが密
猟にきていた朝鮮人を見つけ、日本へ連行したことがあったので
す。この事態を受けて、幕府が李氏朝鮮に抗議すると、李氏朝鮮
は、西暦512年以来、この島(鬱陵島)は朝鮮の領土だと主張
して、長期間にわたってもめたのです。
 しかし、17世紀末の徳川5代将軍綱吉は、朝鮮のいい分を認
め、日本からは島に渡航させないことを朝鮮に伝えたのです。こ
れによって、江戸時代の竹島問題は決着したのです。
 当時の日本の船舶がかなり頻繁に鬱陵島まで出かけていた事実
から、鬱陵島のはるか手前にある松島(現在の竹島)の存在には
当然気がついており、上陸をしたり、アシカ漁やアワビの採取な
どもやっていたのです。将軍綱吉の命により鬱陵島には行けなく
なったので、松島に上陸していたものと思われます。そのため、
自然にこの島を「竹島」と呼ぶようになったのです。
 1905年になって、明治政府は竹島(鬱陵島)を島根県に編
入しています。具体的には、1905年1月28日に閣議決定を
しているのです。そのさいその原文には、この島を日本の領土と
する経緯が書かれているのですが、その文中に、中井養三郎とい
う漁師がこの島に住み、島について種々の調査をしていることが
記されているのです。竹島は無人島ですが、実際にこの島に渡り
住んでいた日本人がいたことが重要な理由になっているのです。
 この中井養三郎という人物について、保阪正康氏は自著で次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 中井と称する漁業者はこの島がどのような特徴をもち、自分が
 調査したところ誰にも所有されたことがなく、それゆえに今後
 は大いに利用していきたい旨の記述も行っている。この申請書
 を読む限り、竹島は二つの特徴をもっていることがわかる。ひ
 とつは、この島は「中井養三郎という漁業者の尽力」により、
 脚光を浴びたことであり、もうひとつはこの島自体がもつ特徴
 は「中井」によって調査され、その努力で島根県に編入された
 という事実である。今にして思えば、この中井という人物の功
 績は大きいということになろうか。
       ──保阪正康著/「歴史でたどる領土問題の真実
         /中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/31]

≪画像および関連情報≫
 ●竹島単独提訴・韓国の対応見極め/韓国側相当嫌がっている
  ―――――――――――――――――――――――――――
  島根県・竹島の領有権をめぐる国際司法裁判所(ICJ)へ
  の単独提訴について、政府は訴状の準備作業を月内にも終え
  た上で、即日提訴はせず、韓国側の出方を見極める方針を固
  めたことが11月4日、分かった。複数の政府関係者が明ら
  かにした。単独提訴を外交カードとして準備・温存し、韓国
  政府の慎重な対応を引き出す考えだ。外務省幹部は「訴状の
  準備作業はほぼ終わったが、提訴時期は政治判断」と指摘。
  日韓外交筋は「単独提訴は重要な外交ツール。最も効果的な
  時期を狙って提訴する」と強調した。韓国大統領選を12月
  に控え、争点となるのを回避する狙いもある。また、韓国側
  が関係修復に向け積極的な動きをみせれば、来年2月の新政
  権発足以降も単独提訴を留保する可能性もあるが、政府関係
  者は「仮に李明博大統領がもう一度竹島に上陸すれば、すぐ
  さま単独提訴に踏み切るだろう」と説明した。日本政府は李
  大統領による竹島不法上陸を受け、8月にICJへの共同付
  託を提案。韓国側がこれを拒否したため、単独提訴に向けた
  準備を進めてきた。単独提訴しても韓国側の同意がなければ
  裁判は始まらないが、韓国側には拒否理由を説明する義務が
  生じる。ただ、最近は日韓関係の緊張緩和が進んでおり、外
  相会談や事務レベルの対話が進展。9月の国連総会で韓国の
  金星煥外交通商相が行った演説では、竹島や慰安婦問題への
  言及を避け、日本を名指しで批判することもなかった。
  http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121105/plc12110508330004-n1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

竹島(韓国名/独島).jpg
竹島(韓国名/独島)
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
重ねて失礼します。


>そのため、自然にこの島を「竹島」と呼ぶようになったのです。


これも誤解です。現在の竹島は江戸時代に「松島」と呼ばれていたわけですが、それが自然に「竹島」と呼ばれるようになったのではなく、「竹島」という名称は1905年の閣議決定に基づく領土編入の際に公式に新規命名されたものです。



>1905年になって、明治政府は竹島(鬱陵島)を島根県に編入しています。

 これも誤りです。日本は鬱陵島を島根県に編入したことはありません。日本が島根県に編入した竹島は、鬱陵島に行く途中にある小さな島、江戸時代に松島と呼ばれていた島です。
Posted by chaamiey at 2012年12月29日 06:15
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