2006年12月22日

3大交響曲も資金繰りの一環か(EJ1988号)

 1788年――この年は、父のレオポルトが亡くなった次の年
であり、モーツァルトが「洞窟」の設立に向けて具体的な準備に
入ったとみられる年です。
 1787年から88年にかけてのモーツァルトの懐具合は決し
て悪くなかったはずです。1787年は、プラハで歌劇『ドン・
ジョバンニ』が大当たりし、ウィーンに帰ってくると、皇帝ヨー
ゼフ2世から呼び出され、同年12月1日付で宮廷作曲家の地位
を与えられているのです。
 それに父のレオポルトがモーツァルトのために残した1000
フローリンのお金も入っているのです。このお金のいきさつにつ
いては、EJ第1938号に書いてあります。
 しかし、モーツァルトはこの年にウィーンの聴衆には冷たくさ
れ、ほとんど演奏会を開くことはできなかったのです。もちろん
サリエリらの宮廷音楽家たちの陰謀によるものです。
 そのためモーツァルトはプラハで稼ぎ、その後もプラハで作曲
活動を続けてくれれば、『ドン・ジョバンニ』と同じ条件で報酬
を支払うという良い提案を受けていたのに、それを断って仕事に
ならないウィーンに戻っているのです。もし、プラハで仕事を続
けていれば間違いなく1000フローリンを手にすることができ
ていたのに、あえてウィーンに戻ってきているのです。
 どうして、ウィーンに戻ってきたのでしょうか。
 一説によると、モーツァルトがウィーンに戻ったのは、グルッ
クが死亡したためといわれています。しかし、モーツァルトとグ
ルックとの付き合いはハイドンほど深くはなく、稼ぎの良い仕事
を放り出してまで戻るほどのことはなかったのです。もっとも、
グルックが死んだおかげで、モーツァルトは宮廷作曲家の地位を
手にすることができたことは確かなのですが・・・。
 そして、1788年からモーツァルトは、巨額の借金を最期の
年である1791年まで積み重ねるのです。これらの借金は、明
らかに「洞窟」設立のための準備資金と見ることができます。当
時生活には困っていなかったからです。そして、あえてウィーン
に戻った理由も新支部設立のためだったと考えられます。
 1788年6月にモーツァルトは、プフベルクに対して次のよ
うな手紙を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もしあなたが1年か2年、1000もしくは2000フローリ
 ンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛
 と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けになる
 でしょう!        ――1788年6月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうみてもこれは生活資金のための借金申し込みとは思えない
のです。金額が大き過ぎるからです。しかし、「洞窟」設立のた
めの資金と考えると、納得がいくのです。
 しかし、これに関してプフベルクは、200フローリンしか用
立てませんでした。プフベルクは、モーツァルトの要求に対して
誠実に応えているのですが、つねに要求よりも控え目の資金しか
用立てていないのです。その代りそのお金が返済されなくても請
求しないし、重ね貸しを許しているのです。
 1000〜2000フローリン必要なのに200フローリンし
か入らない――モーツァルトはどう対応したのでしょうか。
 確かな証拠はないのですが、そのとき、もうひとつの借り手で
あるリヒノフスキー侯爵から借りたことは十分考えられます。そ
れは、それから1年間というものモーツァルトはプフベルクに金
の無心をしていないからです。
 このリヒノフスキー侯爵からの借り入れのほかに、モーツァル
トは自分の能力を使って資金作りをした可能性があります。それ
が、あの3大交響曲の作曲なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交響曲第39番/KV543 ・・・ 1788.6.26
 交響曲第40番/KV550 ・・・ 1788.7.25
 交響曲第41番/KV551 ・・・ 1788.8.10
―――――――――――――――――――――――――――――
 後世に完成度の高い交響曲として残っているこれら3曲の交響
曲は、1788年6月26日から8月10日までの3ヶ月ですべ
て完成しているのです。そのためこれら3曲は明らかにワンセッ
トであると考えられるのです。
 「3」という数字がフリーメーソンにとって重要な数字である
ことは既に述べていますが、交響曲3曲を3ヶ月で完成させて、
それによる資金を「洞窟」設立のために使おう――モーツァルト
はそのように考えたのではないかと思われます。
 このように考えてくると、リヒノフスキーの申し出で1789
年4月に奇妙な旅に出る理由が推察できるのです。これについて
EJ第1939号では、サリエリらの陰謀によるものと書きまし
たが、どうもそうではないようなのです。
 おそらくリヒノフスキーは1788年にモーツァルトに貸した
お金が約定通り戻ってこないので、その返済資金をモーツァルト
に作らせるため、リヒノフスキーが土地勘のあるドイツ旅行を提
案したのではないかといわれているのです。現地でモーツァルト
に演奏会を行わせ、返済資金を稼がせようというわけです。
 しかし、この旅行は準備不足のためか、ほとんど所期の目的を
達成することなく終っているのです。そのためかえってモーツァ
ルトの借金の総額は増えてしまっています。いずれにしても、リ
ヒノフスキーとモーツァルトの北ドイツ旅行は多くの謎に包まれ
ており、真相はわかっていないのです。
 結局、リヒノフスキーへの返済は一部はモーツァルトから返済
があったものの、1791年になっても完済されず、リヒノフス
キーは、1791年春に裁判所にモーツァルトに対する貸金返還
訴訟を起こすのです。そしてその判決が1791年11月に出さ
れたのです。しかし、その直後にモーツァルトが急死してしまう
ことになります。      ・・・・  [モーツァルト66]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの6大交響曲について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーノンクールが38番以降を指揮したこのセットは、モー
  ツァルト没後200年追悼演奏会のライブ録音だ。4曲とも
  各主題の性格を明確に浮き上がらせ、強弱や明暗などのコン
  トラストも鮮烈な革新的演奏。伝統的な演奏ならレナード・
  バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤やカール・ベーム指
  揮ベルリン・フィル盤を。
  http://music.jp.msn.com/special/classic/harnoncourt.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1988号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:13| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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