2012年10月29日

●「最大のチャンスを逃した1992年」(EJ第3416号)

 1992年3月、当時のロシアのコズイレフ外相が来日したの
です。そのとき、日本の経済力は突出しており、ソ連崩壊の後遺
症によって苦しんでいたロシアとしては、日本の大型支援を何よ
りも望んでいたのです。しかし、それには領土問題を解決して、
日本とロシアの平和条約を成立させることが不可欠なのです。日
本にとって絶好のチャンスだったといえるでしょう。
 日本は、この1992年に数回にわたって、北方四島住民に対
して緊急人道支援物資の供給や65億円の人道支援資金を贈った
りしているのです。それにより、四島交流が実現するなど日本と
ロシアの関係は急速に改善されつつあったのです。
 そういうときにコズイレフ外相が来日したのです。そのとき、
コズイレフ外相は、ある提案を日本に持ってきたといわれていま
すが、その内容は現在でも明らかにされていないのです。これに
ついて、東郷和彦氏は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 存在しないといわれるこの提案を確認することはできないが、
 この案は、56年宣言に従い歯舞・色丹を日本に引き渡すこと
 に同意するとともに、国後・択捉についてギリギリの譲歩を含
 むもののようであった。    ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、その提案を日本は断わっているのです。既に述べたよ
うに、日本は「四島一括即時返還」の旗は降ろしたものの、主権
については「四島一括」で取り戻すという方針を決めており、ロ
シアの提案は、四島一括主権返還ではないとして、断ったものと
思われます。
 おそらくそのときのロシアの提案は、歯舞・色丹を日本に引き
渡すと同時に、国後・択捉両島については主権は返還しないもの
の、ロシア側の何らかの譲歩、おそらく何らかのかたちでの「交
渉の継続」を匂わすものであったことは確かです。現在、日本が
いちばん求めている解決策だったのですが、日本はそれを断わっ
ています。ちなみに、当時は宮沢首相と渡辺美智雄外相の時代で
あったのですが、次の年に自民党は政権を失うことになります。
 しかし、日本は経済が好調で強気であったこと、中山提案にお
いて、「四島一括即時返還」を「四島主権の一括返還」に条件を
緩めたばかりであったこともあって断わったのでしょう。「ロシ
アは国力が弱っており、いずれ折れてくるだろう」という楽観的
な読みがそこにあったことは確かです。
 しかし、ロシアはこれに強く反発したのです。その結果、同年
9月に予定されていたエリツィン大統領の来日がキャンセルされ
たのです。もっともその後の日本とロシア間の交渉で、エリツィ
ン大統領の来日は、1993年10月に実現し、10月13日に
細川護煕首相とエリツィン大統領の会談が行われたのです。
 しかし、この会談は、海部・ゴルパチョフ会談とほとんど同じ
だったのです。北方四島が交渉の対象であるという「1」は認め
たのですが、「2」の歯舞・色丹両島の返還については、対立し
エリツィンは譲歩しなかったのです。
 エリツィンは、強硬だったのです。日本側が東京宣言に「56
年宣言」という言葉を入れてほしいと求めたのに対し、絶対に認
めなかったのです。その代わりに合意したのは、次の表現だった
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     日ソ間の条約が日ロ間で引き続き適用される
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、首脳会談で細川護煕首相が「この表現に『56
年宣言』は含まれるか」と念を押したのに対し、エリツィンは激
怒し、それを認めなかったといいます。しかし、最後の記者会見
では、記者の質問に対し、渋々それを認めたといいます。結局、
ゴルバチョフとの会談以上の進展はなかったのです。
 東京宣言から5年間は、日ソ交渉は止まってしまったのです。
ロシアの内政問題やエリツィン大統領の健康問題があったからで
す。そして1998年4月18日にエリツィン大統領が来日し、
首脳会談が開かれたのです。場所は伊豆の川奈ホテル。そのとき
日本のトップは、橋下龍太郎首相になっていたのです。
 橋下首相は、ある秘策を胸に周到の準備をしてこの会談に臨ん
だのです。これについて、作家の上坂冬子氏はエピソードを交え
て、次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 余談だが、迎える側の日本としても合意の成功のために緊張の
 極にあったと思われる。桜の名所といわれている川奈ホテルで
 は、エリツィン訪日と桜の満開を一致させるべく、庭にドライ
 アイスを敷いて桜を維持した。初日は日ロの貿易を活発化する
 ための投資会社などを中心に、もっぱら経済問題が話し合われ
 たが、二日目は例の魚釣り(エリツィン氏は大の釣り好き)で
 ある。海釣りだから餌を撒くわけにはいかない。魚群探知機付
 きの船を用意し、エリツィンが満面に笑みをたたえる収穫があ
 った。ムードの盛り上がったところで、橋本首相は択捉島の北
 側、得撫(ウルップ)島の南側に国境線を引きたいと提案して
 いる。つまり四島を日本領とした国境で、日ソ53年間におよ
 ぶ問題の核心であった。国境がここに決まればすべては解決す
 るといっていい。エリツィンは興味深い提案だと前向きに応じ
 てきた。だが、大統領補佐官のヤストロジェムスキーが、エリ
 ツィンに耳打ちし、重要な問題だから持ち帰って検討してはど
 うかと牽制したのである。大統領補佐官のこの言葉によって、
 橋本首相はここで大きな魚を釣り落としたことになる。
     ──上坂冬子著「『北方領土』上陸記」/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 エリツィンの気持は明らかに動いたのです。しかし、大統領の
スタッフは全員この提案に反対であり、二度とこの問題を持ち出
してくることはなかったのです。  ── [日本の領土/20]

≪画像および関連情報≫
 ●上坂冬子著「『北方領土』上陸記」/書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  上坂冬子氏の「北方領土」上陸記を読みました。私の小さい
  頃はもっと北方領土返還運動が盛んだったように思うのです
  が、最近では残念ながらあまり大きな盛り上がりを見せてい
  ません。この本は、「上陸記」とは言うものの、ビザなし渡
  航に関する記述はその一部で、北方領土全般について書かれ
  ています。この本を読んで、北方領土の歴史的な経緯から現
  在の状況まで一通りを知ることができるかと思います。恥ず
  かしながら、これまで北方領土についてはほとんど知識がな
  かったことを改めて認識させられてしまいました。やはり、
  どう歴史を解釈しても択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島は
  日本固有の領土だということがわかります。根室のノサップ
  岬から沖に出て1.85キロメートル先からロシア領という
  のは誰が考えてもおかしいです。昔、北方領土に住んでいた
  人たちの話を読むと、むなしい気持ちがひしひしと伝わって
  きます。幸せだった頃の写真を見ると、そこが戦後60年に
  わたり占領されていて、いまだ何ら進展がないことに不思議
  な気持ちがわいてくると思います。
      http://toba.livedoor.biz/archives/50628582.html
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上坂冬子さんの本.jpg
上坂 冬子さんの本
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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