じめてのロシアのナンバーワンの来日という、記念すべき出来事
だったといえます。そのときは、まさかその年の12月にソ連が
崩壊するとは誰も予想しなかったのです。
海部・ゴルバチョフ会談では、昨日のEJでご紹介した「北方
領土を返還させる3つの方針」にしたがい、真剣に議論されたの
です。わが国の3つの方針を再現しておきます。
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1.択捉・国後両島については、文書で交渉の対象であるこ
とを認めさせる。
2.歯舞群島と色丹島については、1956年日ソ共同宣言
通り返還させる。
3.上記1と2が実現した後に、択捉・国後両島についての
実質論議に入る。
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「1」については、ゴルバチョフ大統領はあっさりとOKし、
四島の名前が声明に明記されたのです。日ソ交渉史上はじめての
ことであり、きわめて画期的なことだったのです。
しかし、「2」についてはゴルバチョフ大統領は一切これを認
めず、「56年宣言」という言葉を声明に書くことを頑として拒
んだのです。「2」がクリアされなければ、もちろん「3」の議
論はありえないのです。
それにしてもゴルバチョフは、どうして「2」に対して拒否し
たのでしょうか。
これは後で分かったことですが、当時ゴルバチョフ大統領の国
内の政権基盤は弱体化しており、歯舞群島と色丹島の返還を決定
できる力は既になかったのです。実際に、それから4ヵ月後の8
月19日にクーデターが起こり、ゴルバチョフ大統領はクリミア
半島にある大統領の別荘に軟禁されてしまったのです。
それは、ゴルバチョフの改革を嫌う「国家非常事態委員会」を
名乗る守旧派の起こしたクーデターだったのです。実は8月20
日にロシアのエリツィン、カザフスタンのナザルバエフとともに
ゴルバチョフ大統領は、新連邦条約に調印する予定になっていた
のです。しかし、クーデターには、大統領の側近が多数関わって
いたということもあって、ゴルバチョフ自身とソ連共産党の信頼
は、この時点で失墜してしまったのです。そしてソ連崩壊ととも
に、ロシアはエリツィンの時代になったのです。
1951年10月に中山太郎外相がソ連を訪問して平和条約交
渉が行われたのです。そのさい日本は、今までやったことのない
大胆な提案をソ連に提示したのです。その提案とは、次のような
ものだったのです。
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四島への日本の主権が確認されれば、実際の返還の時期、態
様及び条件については柔軟に対応する考えである。
──保阪正康・東郷和彦共著
『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
角川ONEテーマ21刊
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この提案は、今までの「四島一括即時返還」と比べると、一見
して大幅な後退のように見えます。しかし、このままずるずると
年を重ねると、四島が返ってこないばかりか、北方四島が日本の
領土であることが日ソ双方で希薄化してしまうことを日本側は恐
れたのです。
確かに今までの「四島をすぐ返しなさい」という要求から、四
島の帰属は認めるなら、島の管理や返還はソ連側の事情にまかせ
るというのですから、実態は何も変わらないわけです。ちょうど
戦後連合軍(米軍)の管理下に置かれた沖縄のようなポジション
に北方四島を置くという考え方です。
当時外務省のソ連課長をしていた東郷和彦氏によると、この北
方領土に関する日本側の提案の詳細は、積極的に外部にブリーフ
しなかったのです。今までとは異なる提案なので、あくまでブラ
ックボックスに入れて先方と交渉するのが、外交交渉の常道であ
ると東郷氏は判断したと述べています。
この中山提案以来、日本側の北方領土に関する交渉の成果は、
次の2つのいずれかになったといえます。
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1.四島一括即時返還の実現
2.四島の主権を認めさせる
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考えてみると、1992年〜1993年という年は、ソ連が崩
壊してロシアとして再生するとき途上にあり、ロシアが経済的に
一番困っていた時期なのです。したがって、北方領土の解決はこ
の時期を逃してはならなかったのです。
実際にこの時期の日本とロシアの関係は、外交的に一段と活発
化したのです。そのいくつかをひろってメモしておきます。
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1992年 1月:北方四島住民に対する緊急人道支援物資
の供与(以後、何回も実施されている)
3月:コズイレフ外相訪日
4月:四島交流/住民の日本訪問
5月:四島交流/日本側の初訪問
8月:日本週間(モスクワ)
9月:渡辺美智雄外相ロシア訪問
1993年 1月:桜内衆院議長ロシア訪問
7月:東京サミット(G7)
10月:エリツィン大統領来日
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とにかく数えきれないほどあるのです。上記はほんの一部に過
ぎないほど、ロシアとの交流は活発化したのです。しかし、この
時期になぜ北方領土問題は解決しなかったのでしょうか。来週も
この問題を掘り下げます。 ── [日本の領土/19]
≪画像および関連情報≫
●プーチン大統領の真意を見抜け/JBプレス/2012.3
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プーチン首相は、北方領土問題について「互いに受け入れ可
能な妥協点を探りたい」、また「我々は、大胆に前進しなけ
ればならない」と述べ、北方領土問題の最終解決を目指す意
向を示した。そして、「領土問題の解決が、(日本との関係
において)本質的なものではなく、二次的なものになるよう
な状況を作らなければならない」と述べ、日本との経済関係
の発展を重視する姿勢を示した。なお、氏は、2000年か
ら2008年の大統領在任中、北方領土問題について、19
56年の「日ソ共同宣言」が基本との考えを繰り返し、「2
島引き渡しで最終決着」とする方針を示していた。限られた
情報ではあるが、プーチン大統領の真意は、明らかに「2島
返還」である。しかし、ロシアにとってはすでに解決済みの
問題、2次的な問題であるので、早急にごたごたを解消し、
自国にとって優先度の高い、しかし自国だけでは成し遂げら
れない極東ロシアの経済開発を日本の力(資金と技術)を利
して推進したいとの思惑が見え見えである。北方領土問題は
歴史を振り返ると、ロシア(ソ連)の不凍港を求めた南下政
策と飽くなき領土拡張政策の帰結である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34774
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ゴルバチョフ/エリツィン大統領


