2012年10月25日

●「北方領土を返還させる3つの方針」(EJ第3414号)

 1978年の日中平和条約の締結以降、日本とソ連の関係は良
くない方向に向かっていったのです。日本と中国の間にも尖閣諸
島という領土問題があり、現在それが日中間の火種の原因になっ
ていますが、両国の当時の為政者の知恵によって、それを棚上げ
にすることによって、日中平和条約が締結されたのです。
 その日中平和条約をまとめた日本の外務大臣が園田直氏です。
現在たちあがれ日本の幹事長をしている園田博之氏の父親に当り
ます。そのとき、園田外相のカウンターパートであるソ連の外相
は、アンドレイ・グロムイコ外相──サンフランシスコ平和条約
のさいの外務次官であり、1957年にフルシチョフ政権の外務
大臣に就任して以来、なんと28年間にわたり、一貫して外相と
して日本との領土問題に対峙してきた人物です。
 当時は東西冷戦の時代で、米国を中心とする民主主義国で構成
される西側陣営と、ソ連を中心とする共産主義国の東側陣営が対
立しており、両陣営とも少しでも多くの国を自分の陣営に引き入
れようとしのぎを削っていたのです。
 そういうときに、日本が中国と平和条約を締結したので、ソ連
としては危機感を感じたのです。そのこともあって、1979年
にソ連はアフガニスタンに侵攻したのです。もともとアフガニス
タンはソ連が長く援助を行ってきており、ソ連寄りの政権──ア
フガニスタン人民民主党政権ができていたのですが、これに抵抗
するムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起しており、そ
のバックには米国がいるといわれていたのです。
 しかし、時の米国大統領は平和主義者のカーター氏であり、彼
は米ソ対決には消極的だったといわれます。ソ連としてはそのあ
たりのことを十分計算に入れて、1979年12月24日にアフ
ガニスタンに侵攻したのです。
 このように西側陣営との対立が激しくなるにつれてソ連は「日
本との間に領土問題は存在しない」といい出したのです。日本が
尖閣諸島や竹島について発言しているあのセリフです。それに加
えてソ連は、択捉・国後両島に軍事施設を構築すると宣言するな
どして、日本を揺さぶってきたのです。しかし、当時は口でそう
いうだけで、現在のロシアのように政府関係者が両島を訪問した
りなどはしなかったのです。
 1985年になると、少し状況が変化したのです。それは、そ
の年の3月に、ミハイル・ゴルバチョフ氏がソ連の書記長に就任
したからです。ゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカ(改革)
とグラスノスチ(情報公開)を掲げてソ連の大改革を推し進め、
それは東欧の社会主義国の民主化の契機になったのです。さらに
外交面では、40年以上続いた冷戦を就任して5年目に終結させ
軍縮を進めたのです。そういう意味で彼が1990年にノーベル
平和賞を受賞したのも当然のことであるといえます。
 ゴルバチョフ書記長になって、あのグロムイコ外相はシュヴァ
ルナゼ氏に交代したのです。日本にとって領土問題を前進させる
のチャンス到来と考えても不思議ではなかったのですが、ことは
そう簡単ではなかったのです。ゴルバチョフ書記長の大統領とし
ての来日が実現したのは6年後の1991年4月のことであり、
その間に日本の首相は、中曽根康弘氏、竹下登氏、宇野宗佑氏と
3人が代わり、海部俊樹首相の時代になっていたのです。
 このゴルバチョフ来日に向けて、日本としては北方領土四島返
還に関する3つの基本方針を立てたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.択捉・国後両島については、文書で交渉の対象であるこ
   とを認めさせる。
 2.歯舞群島と色丹島については、1956年日ソ共同宣言
   通り返還させる。
 3.上記1と2が実現した後に、択捉・国後両島についての
   実質論議に入る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」については、あの田中角栄首相とブレジネフ書記長の口
頭の約束──「日ソ両国の戦後未解決の諸問題は、北方四島問題
である」を文書化することです。これを認めさせないと交渉は前
進しないからです。
 「2」について考えます。ソ連は一貫して、歯舞・色丹両島返
還は、あくまで択捉・国後両島の放棄とパッケージであると主張
しています。そこで、これを切り崩すために「1」を認めさせた
うえで、歯舞・色丹両島の返還を求めるのです。しかし、ソ連と
しては、歯舞・色丹両島を返すときは、領土問題を終わりにする
と主張して「2」を認めないのです。
 「3」は「1」と「2」が実現された後で、行われる交渉とい
うことになります。日本としては、当然のことながら、返還を求
めることになりますが、話が「1」と「2」の段階で堂々巡りを
していて、なかなか「3」までこないのです。
 さて、これまでの領土をめぐる日露交渉で、日本は3回文書合
意しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.海部・ゴルバチョフ声明 ・・・ 1991年
   2.       東京宣言 ・・・ 1993年
   3.   イルクーツク声明 ・・・ 2001年
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」については、ゴルバチョフ大統領来日時の声明であり、
これによって3つの基本方針の「1」──「択捉・国後両島につ
いては文書で交渉の対象であることを認めさせる」については、
クリアされたのです。これはこれまでの交渉経過を考えると、画
期的なことです。
 「2」は、細川首相とエリツィン大統領の間で出された声明で
あり、「3」は、2001年3月25日、イルクーツクにおける
森首相とプーチン大統領との会談で出された声明です。
 明日のEJでは、これら3つの声明について検証し、これから
の日露の領土問題解決の方向について考えます。
                 ── [日本の領土/18]

≪画像および関連情報≫
 ●ゴルバチョフ登場の背景とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ゴルバチョフの3代前の書記長レオニード・ブレジネフの政
  策は1970年代後半以降徐々に破綻をきたし、中ソ関係や
  米ソ関係のさらなる悪化を招いた。特に米ソ関係は1979
  年のアフガニスタンへの軍事介入で完全に破綻し、ソ連崩壊
  の遠因となる。こうした状況の中で1982年にブレジネフ
  が死去。その後任となったユーリ・アンドロポフは、病弱で
  あったため、1年半後の1984年に死去。さらにコンスタ
  ンチン・チェルネンコが書記長となったがチェルネンコも病
  弱であり、書記長就任の翌1985年に死去。こうした中で
  54歳だったゴルバチョフが書記長となった。ペレストロイ
  カとグラスノスチは成功したものの、経済政策は守旧派との
  対立で次第に行き詰まっていった。こうした中でボリス・エ
  リツィンが台頭してくる。しかし、エリツィンはゴルバチョ
  フが守旧派と妥協していくことに反発したため1987年に
  モスクワ市党第1書記を解任され、さらに1988年2月に
  は政治局員候補から外される。守旧派と改革派の対立の土台
  は1988年のゴルバチョフによる過去の政治批判によりで
  きあがっていた。1988年10月にはアンドレイ・グロ
  ムイコ最高幹部会議長が辞任し、ゴルバチョフが兼任する。
                    ──ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A38%E6%9C%88%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
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海部・ゴルバチョフ会談.jpg
海部・ゴルバチョフ会談
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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