なるほどの長い年月にわたって日本のソ連に対する領土交渉が始
まったのです。
最初の30年は冷戦ということもあって事態はまったく動かず
日ソ関係は悪化する一方だったのです。その後いくつかの転機は
あったものの、日本とロシアの領土交渉は56年が経過した現在
も続けられていますが、一島すら取り戻せていないのです。
ソ連はヤルタ協定を盾に取り、引き渡しを約束された千島列島
の中には日本のいう北方四島がすべて入っていると主張して、択
捉・国後はともかくとして、歯舞・色丹両島まで千島列島の中に
含めているのです。
これに対して日本は、ヤルタ協定は日本のあずかり知らぬとこ
ろで決められた約束に過ぎず、そんなものには日本は拘束されな
いと主張しています。さらに、ソ連の北方四島の占拠は、大西洋
憲章とカイロ宣言の原則に反しているではないか──日本はこの
ように非難をしているのです。
大西洋憲章やカイロ宣言は、戦後処理を主導する国として、領
土不拡大を宣言しています。不当に自分の領土を増やしたりしな
いという宣言です。大西洋憲章は米国と英国は署名し、ソ連は署
名はしていないものの、同意を表明しています。しかし、そんな
ことに耳を傾けるソ連ではなかったのです。
1960年にいわゆる「グロムイコ声明」(ソ連政府声明)と
いわれるものが出ます。これは岸信介首相が日米安保条約の改定
を行ったことによる反発です。
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ソビエトは、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関
係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし
引き渡しに条件「外国軍隊の日本からの撤退」を付けることを
主張する。 ──グロムイコ声明/ウィキペディア
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この声明は、歯舞・色丹二島の返還条件として、米軍が日本か
ら撤退することを上げているのです。絶対に日本ができない条件
を突き付けたわけです。しかし、二島返還はソ連側から出してき
ています。これによってもわかるように、歯舞・色丹の二島につ
いては、ソ連としては、日本に返還すべきものという意識を少し
は持っているのです。
1970年代に入ると、情勢は少し変化します。それはニクソ
ン米大統領とキッシンジャー補佐官の主導によるデタントです。
デタントというのは、戦争の危機にある二国間の関係が緊張緩和
に向かうことを意味しています。
ニクソン大統領は、1971年7月15日に「中華人民共和国
を訪問する」と予告したうえで、1972年2月に電撃訪問し、
毛沢東主席と会談を行っています。1949年に共産党政府が成
立して以来、はじめての米国首脳の中国訪問になるのです。しか
し、これによって米ソの関係は一層深刻化するのです。
日本においても田中角栄首相が中華人民共和国と国交を結んで
います。1972年9月29日のことです。さらに田中首相は、
1973年10月にソ連に乗り込み、当時のブレジネフ書記長と
会談を行い、口頭ではあるものの、ブレジネフ書記長から次の言
質をとったのです。
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日ソ両国の戦後未解決の諸問題は、四島問題である
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このところくるくる変わる日本の首相と違って、田中角栄首相
はきちんとやるべきことをやっています。とくに外交では素晴ら
しい業績を遺しています。このときの田中/ブレジネフ会談には
次の逸話が残っています。
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1973年、日ソ共同声明に関する交渉の席でのエピソード。
机をがんがん叩きながら、ブレジネフ書記長を相手に迫る田中
が「『未解決の諸問題』に北方四島の返還問題が含まれるか」
と尋ねると、ブレジネフは、「ヤー・ズナーユ──そう理解す
る」と返答。しかし、曖昧さを許さない田中が、「含まれるの
か含まれないのか、イエスかノーか、ご返事いただきたい」と
迫ると、ブレジネフは渋々、「ダァー(イエス)」。
──「週刊ポスト」/2010年9月17日号
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しかし、その後、日ソの関係は悪化の一歩を辿るのです。その
出来事を列挙すると次のようになります。
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1976年:ソ連兵士の戦闘機ミグによる亡命事件
1978年:日中平和友好条約締結へのソ連の反発
1979年:ソ連軍のアフガン侵攻による対ソ制裁
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1976年9月6日、ソ連兵士ベレンコ中尉がミグ25迎撃戦
闘機で函館空港に着陸し、その後米国に亡命する事件があったの
ですが、その事件処理を巡ってソ連が日本を批判したのです。
日本では、やすやすと防空網を突破されたことが大問題になり
緊急防衛対策として早期警戒機E─2Cが導入され、レーダー網
が一段と強化されたのです。
1978年の日中平和友好条約締結は、ソ連にとって大ショッ
クだったのです。なぜなら、中・日・米3国に組まれたら、極東
・東アジアが東西から完全に封じ込められてしまうからです。
そこでソ連は、窮余の策としてアフガニスタンを衛星国化しよ
うとしたのです。つまり、南に突破口を求めたわけです。しかし
アフガニスタンにはさまざまな部族が複雑に入り組んでおり、一
筋縄では共産化ができないので、一気に軍事力で攻め入って、共
産化しようとしたわけです。1979年のことです。
これによって、日ソ関係はさらに険悪化し、北方領土の返還は
さらに遠のいてしまうことになります。ところが、1985年に
なって少し光が見えたのです。 ── [日本の領土/17]
≪画像および関連情報≫
●大平外相と藤原弘達氏の話/角さんの外交交渉
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田中・ブレジネフ会談の様子をめぐって、角栄が辞任する少
し前の頃、大平外相と藤原弘達氏との間で次のようなゴルフ
談義のやり取りが行われているので、これを紹介する。
大平:いや、藤原君、我々のようなインテリジェンスのある
者には、角さんみたいなことはできんだろう。
藤原:じゃあ、あなたはやる気はないんですか。
大平:私は、日ソ交渉の時、角と一緒にソ連に行ったが、あ
の時、角は、ブレジネフを相手に、机をガンガン叩き
ながら、国交断絶寸前までいくほど、がなりたてて、
その晩はブランデーを飲んでグーグーと寝てしまう。
そんな角の姿を見たとき、これはわが国が生んだ大日
本男児だと思ったもんだよ。この男にあるところまで
やらせておいて、ピッチャー交代の時は考えなければ
ならないが、しかし、わしなんか、とても角のあとを
やれる器ではないよ。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/gyosekico/nissokosyo.htm
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田中 角栄首相/ブレジネフ書記長


