2012年10月23日

●「ロシア外交史上最大の失敗」(EJ第3412号)

 サンフランシスコ平和条約の第2条第2章(c)の日本の領土
に関する記述は、日本にとって最悪の内容です。とくに、これに
よって多くの利益を得るのはロシア(当時のソ連)です。
 なぜなら、ロシアは労せずして、日本領であった樺太南部、さ
らに千島列島の全島に加えて、明らかに北海道の一部である歯舞
群島と色丹島まで自国のものにできるのです。しかも、世界から
も、当の日本からも批判──ソ連は火事場泥棒のように日本の島
を不当に収奪したという批判を受けることはなくなるのです。
 しかし、それにもかかわらず、ソ連はサンフランシスコ平和条
約に出席しながら、調印しなかったのです。サンフランシスコ平
和条約は、51ヶ国が出席し、48ヶ国が調印したのですが、ソ
連とチェコとポーランドの3ヶ国は調印しなかったのです。もっ
ともチェコとポーランドはソ連の衛星国であったので、ソ連に追
随せざるを得なかったのです。
 ソ連はなぜ調印しなかったのでしょうか。それは、中国代表の
資格について米国と意見を異にしていたからです。米国は、蒋介
石の中華民国(現在の台湾)を中国代表として招待したのですが
英国やソ連と意見が合わず、とくに中華人民共和国の後ろ盾であ
るソ連としては調印するわけにはいかなかったのです。結局、中
華民国はこの会議には参加しなかったのです。
 しかし、これはソ連の外交政策の最大の失敗であったのです。
結果としてソ連のこのときの外交の失敗が、当時弱い立場にあっ
た日本を救ったのです。元外務省ロシア課長の東郷和彦氏は、こ
れについて自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、国際関係における日本の立ち位置は非常に弱く、四島を
 実効支配していた戦勝国ソ連の立場は、非常に強かったのであ
 る。もしもこの会合にソ連を代表して出席していたグロムイコ
 外務次官がこの条約に署名していれば、四島の帰属はどうなっ
 ただろう。ソ連は、平和条約の署名によって法的に解決すべき
 戦後処理の問題は終わったと議論することとなったであろう。
 断定はできないが、四島の帰属を回復しようとする日本の立場
 は、限りなく弱くなったにちがいない。
                ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かに21世紀の現況は、サンフランシスコ平和条約締結当時
と何も変わっていません。択捉・国後・歯舞・色丹のわが国の北
方四島は、依然としてロシアに占拠されたままです。
 しかし、日本はロシアと国交回復はしましたが、平和条約は結
んでいないのです。そして依然として日本はロシアに対して、わ
が国固有の領土として四島一括返還を求めています。おそらくこ
れは今後も変わらないでしょう。それでも、これはロシアがサン
フランシスコ平和条約に調印しなかったからこそ、できることな
のです。
 サンフランシスコ平和条約に調印しないということは、日本は
その国とは条約に何も縛られないということになります。そのた
め日本は、その国と外交交渉を行い、平和条約を締結する必要が
あります。
 実際に中華民国(台湾)とは、1952年4月28日に日華平
和条約を調印しています。ソ連とは、1956年10月19日に
日ソ共同宣言を締結したものの、平和条約については北方四島の
帰属が未解決のため、締結を見送っています。なぜ、日ソ共同宣
言を締結したのかというと、日本が国連に加盟するためにはソ連
の賛成が不可欠だったからです。これにより、日本は、1956
年12月18日に国連への加盟が実現しています。
 日ソ共同宣言の締結は、簡単ではなかったのです。日本はソ連
と平和条約を締結するつもりで、1955年6月から交渉をはじ
めたのですが、締結は越年し、10月19日にやっと調印になっ
たのです。当時のソ連は、1953年のスターリンの死亡後に権
力を獲得したフルシチョフが首相を務めていたのです。
 フルシチョフは、非スターリン化、西側国との雪解け外交を展
開しつつあったのです。一方日本では、自由党と保守党の角逐の
時代から自由民主党(現在の自民党)が創設され、いわゆる55
年体制がはじまるプロセスでこの重要な外交交渉は行われたので
す。日本とソ連の全権大使を次に示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      日本側 ・・・・ 松本俊一全権大使
      ソ連側 ・・・・  マリク全権大使
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときの日本政府の方針は、あくまで南樺太、千島列島、歯
舞群島、色丹島は、歴史的に見て日本の固有の領土であると主張
するものの、結果については柔軟に対応するというものでしたが
その返還は絶望視されていたのです。
 しかし、1955年8月5日の午餐会で、マリク全権大使は次
の発言をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 歯舞群島、色丹島については、日本側に引き渡す用意がある
                 ──マリクソ連全権大使
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、松本俊一全権大使は、自著『モスクワにかける
虹』(ゆまに書房)において「最初は耳を疑った。ソ連がそこま
で譲歩するとは思っていなかった」と述べています。これによっ
てもわかるように、日本側はこの交渉が厳しいものになることを
予測していたのです。
 しかし、本国からの訓令により、「四島一括返還」をあくまで
求めていくことにしたのです。このバックに米国がいることにつ
いては既に述べた通りです。そのために交渉は難航し、越年して
一年以上を要し、やっと日ソ共同宣言が締結されたのです。
                 ── [日本の領土/16]

≪画像および関連情報≫
 ●日ソ交渉の逸話/「河野一郎とペーパーナイフ」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  河野一郎農相(当時)の回想では、1956年10月18日
  の交渉中、河野はフルシチョフの大きく先端が鋭いペーパー
  ナイフを見て、刺されたらたまらないと、警戒していた。い
  たずら心もあって、レーニンの写真入りのそのペーパーナイ
  フを取ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをく
  れるよう頼んだ。フルシチョフは気前良く河野にペーパーナ
  イフをあげた。河野は会談後、鳩山に、「フルシチョフがそ
  れを振り回すからヤバクて仕方が無いから分捕った。北方領
  土の代わりに総理に進呈しましょう」と、ペーパーナイフを
  鳩山にプレゼントした。『鳩山一郎・薫日記』には、それを
  「ペーパーナイフをくれた由」と記している。河野がさらに
  翌日の会談で、昨日のは鳩山にあげたから自分用のが欲しい
  と頼むと、フルシチョフは戸棚の大量の中から1本、河野に
  あげた。それには河野も参ってしまったという。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

日ソ共同宣言/当時の新聞.jpg
日ソ共同宣言/当時の新聞
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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