2006年12月18日

モーツァルトは高額所得者である(EJ1984号)

 モーツァルトの最後の年である1791年当時、モーツァルト
はどのくらい借金をしていたのでしょうか。
 モーツァルトの借金の明細はそれを証明する資料がほとんどな
いので推測するしかないのですが、総額で4000フローリン程
度はあったと考えられます。大口債権者は次の3人で、おおよそ
の内訳は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  リヒノフスキー ・・・・・・・ 1435フローリン
  プフベルク ・・・・・・・・・ 1415フローリン
  ラッケンバッヒャー ・・・・・ 1000フローリン
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                  3850フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 大口債権者3人のうち、リヒノフスキーとプフベルクはフリー
メーソンの仲間ですが、ラッケンバッヒャーは富豪商人――おそ
らく今でいう金融業者であると思われます。コンスタンツェは、
その契約内容が相当厳しいものであることを知っており、そのこ
とを母親のセシリアに話していたと思うのです。もし、返済しな
いうちにモーツァルトに万一のことがあったら、一家は路頭に迷
わなければならない――きっとそう考えたのでしょう。
 1フローリン=1万円であるとすると、モーツァルトの借金は
4000万円ということになります。確かに大金ではありますが
問題はこれがモーツァルトにとって返済可能かどうかです。その
ためには、彼の当時の収入を探ってみる必要があります。
 その前に当時のウィーン市民の生活水準というものを大雑把に
頭に入れておく必要があると思います。中級官吏の報酬はどのく
らいであったかというと、年俸で400〜500フローリン程度
――当時官吏は結構もらっていた方であり、中級レベルの世帯と
いってよいと思います。
 大学教授でも年に300フローリン、小教区の司祭職で600
フローリンというところです。ちなみにモーツァルトの父のレオ
ポルト――ザルツブルグ宮廷の副楽長のときは年俸450フロー
リンだったのです。
 同じ音楽家でもウィーンの宮廷楽長となると桁が少し違うので
す。その地位にあったサリエリの年俸は、何と2050フローリ
ンだったのです。しかし、サリエリは特別であり、同じウィーン
宮廷音楽家でも次席オルガニストのアルブレヒツベルガーの年俸
は300フローリンでしかなかったのです。
 これに対し、死亡率の高い18世紀においては、医師の年俸は
高く、ウィーン総合病院の院長クラスでは年俸3000フローリ
ンとサリエリのはるか上を行くのです。
 それでは、モーツァルトは、どのくらいの収入を得ていたので
しょうか。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、1788年から1791年
までのモーツァルトの推定年収は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1788年 ・・・・・ 2060フローリン
   1789年 ・・・・・ 2158フローリン
   1790年 ・・・・・ 3225フローリン
   1791年 ・・・・・ 5672フローリン
        藤澤修治氏論文/「モーツァルトの借金」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで見ると、モーツァルトはかなりの高収入を得ていたこと
になります。これだけの収入があれば、4000フローリン程度
の借金は返せたはずですが、コンスタンツェとセシリアは何を心
配していたのでしょうか。
 それは、おそらく次の3つの理由があると考えられるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.コンスタンツェはモーツァルトの収入の全貌を正確には把
   握していなかったこと
 2.コンスタンツェはモーツァルトの借金の使途についても把
   握していなかったこと
 3.モーツァルトは既に人気がなくなっており、仕事が大幅に
   減ると考えていたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェがモーツァルトの収入についてどこまで知って
いたかは不明です。推定ですが、コンスタンツェが考えていたよ
りもモーツァルトは高収入を得ていたのです。しかし、その全貌
についてコンスタンツェは知らなかったと思うのです。
 これに対して、モーツァルトが相当高額の借金をしていたこと
はよく知っていたのですが、その使途――とくに巨額のものにつ
いては果たして知っていたのかどうかはわかっていないのです。
とくにリヒノフスキーやプフベルクからの借金は巨額であり、そ
れが何に使われていたか――それをコンスタンツェはぜんぜん知
らなかったと思われます。
 収入の全貌が掴めず、明らかに人気は凋落し、仕事は減ってい
る――一方、借金はかなり高額であり、しかも増えている。返せ
る可能性は低い――こういう状況です。このままでは危ないとコ
ンスタンツェとセシリアが考えても不思議はないと思います。
 しかし、コンスタンツェはともかくとして、セシリアは、モー
ツァルトがたぐい稀な音楽の天才であることをよく知っていたの
です。彼の書きためている未発表の自筆譜は必ず高く売れる――
セシリアはそう見抜いていたのです。
 それにしても、モーツァルトは何のために借金をし、何をやろ
うとしていたのでしょうか。
 モーツァルトほどの収入があれば、借金などをしなくてもかな
り豊かな生活が送れたはずなのです。それなのに、モーツァルト
は巨額の借金をしているのです。しかし、それを解明する手がが
りは何も残されていない。明日はこの謎に迫っていきたいと考え
ます。         ・・・・・・  [モーツァルト62]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとリヒノフスキーの謎の旅
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このリフノフスキーはモーツァルトに音楽を教わり、またフ
  リーメイスン仲間でもあり、2人は連れだって、4月始めに
  ヴィーンを旅出ったのである。この旅行中大量の手紙がコン
  スタンツェの元に送り続けられることは言うまでもないが、
  演奏会やオルガン競演などを交えつつ、ライプツィヒでは、
  かつてセバスチャン・バッハが活躍した聖トーマス教会でオ
  ルガン即興演奏を行なえば、バッハに師事した当地の楽長ヨ
  ーハン・フリードリヒ・ドーレスが感動してしまった事件も
  あった。
 http://reservata.s61.xrea.com/academia/mhistory/classic/hwm14-7.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1984号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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