れてソ連に奪われたものと思っています。確かに歴史経緯を調べ
ると、それは事実なのですが、そこには米国が深く介在している
ことと、ソ連の周到きわまる外交戦略が展開されており、問題を
複雑にしているのです。
ソ連の戦略とは、自国には関係のないはずのカイロ宣言をとこ
とん利用し、ヤルタ会談でルーズベルトを籠絡して、ソ連に有利
な対日参戦の代償を得る約束を取り付けたのです。
そしてポツダム会談では、代わったばかりのトルーマン大統領
に対してソ連が日本の北方領土を手に入れる策略を実現する言質
をとっているのです。要するに、ソ連としては、後から何をいわ
れても日本に対抗できる論拠を握ったのです。
ここで問題になるのは、千島列島の解釈をどのようにするかと
いうことなのです。ソ連はこの解釈を自国に有利なように使い分
けているのです。
千島列島には、得撫島──ウルップ島という島があります。こ
の島は千島列島の中央に位置するのです。そのため、この得撫島
を中心に千島列島を次のように2つに分けているのです。
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得撫島以北 ・・・・・ 北千島
得撫島以南 ・・・・・ 南千島
―――――――――――――――――――――――――――――
そして、ここでいう南千島に、日本の北方領土である択捉島と
国後島が入るのです。これによると、色丹島と歯舞群島は千島列
島ではないのです。
ソ連(ロシア)は、そこに「クリ―ル列島」という独自の概念
を持ってきて、色丹島と歯舞群島を含めています。ソ連は色丹島
と歯舞群島にも占領したので、それを正当化するためです。また
ソ連は日本の千島列島の定義まで使って、南千島は当然千島列島
の中に入ると主張しているのです。
しかし、ロシアとしては、内心では歯舞群島と色丹島まで奪取
したのは問題があったと認めているところがあって、交渉次第で
は、歯舞群島と色丹島の両島は返してもよいと思っていることは
確かです。なぜなら、どう考えても、歯舞群島と色丹島を千島列
島に含めるのには無理があるからです。でも択捉・国後両島に関
しては、ロシアは絶対に返そうとはしないでしょう。
しかし、歴史的経緯を踏まえれば、択捉・国後両島はもともと
日本の領土であることに加えて、千島列島そのものは1875年
のサンクトペテルブルグ条約によって、樺太全島をロシア領にす
る代わりに、千島列島全島を日本領にすることになったものであ
り、日露戦争で日本が得たものではないのです。したがって、カ
イロ宣言には縛られないはずです。
保阪正康氏は、ソ連が1945年8月28日から9月5日にか
けて、日本の北方領土を次々と占領したときのスターリンの心境
について、次のように述べています。
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とくに気になるのは単にソ連の歴史的行動への不信感とは別に
歴史上の事実を追いかけていくと、実はスターリンは北方四島
をクリル諸島そのものとはみなしていないことがわかる。その
ことがこの8月28日から9月5日という時間の中に反映して
いるのではないかとすぐに理解できるのだ。その後ろめたさが
こうした史実の背後に見え隠れしているといえるだろう。とく
に1855年の下田条約で日本が獲得した北方四島を収奪して
いくその歴史の中に、スターリンのもつ領土獲得の歪んだ意欲
が感じられる。 ──保阪正康著
「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
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日本は1945年8月15日にポツダム宣言受託を表明し、武
装を解除しています。ソ連はこれを無視して軍事行動による北方
領土収奪を行っているので、その行為は、国際法上認められない
ものです。したがって、本来日本は、北方領土だけでなく、千島
列島全島の領有を主張できるのです。
それでいながら、サンフランシスコ平和条約において、第二条
第二章の(c)の次の条文を受け入れているのです。
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日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツ
マス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近
接する諸島に対するすべての権利、請求権を放棄する
―――――――――――――――――――――――――――――
この条文における千島列島の定義は曖昧であり、ソ連と日本は
それぞれ主張することができます。そうすれば日ソは永遠にこれ
を巡って争い続けることになり、日本の共産化を防ぐことができ
る──これは、ソ連封じ込め政策の構築者として有名なジョージ
・ケナンの構想であるという人がいます。マイケル・シャラー・
アリゾナ大学教授がその人であり、彼は自著で次のように述べて
いるのです。
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千島列島に対するソ連の主張に異議を唱えることによって、米
国政府は日本とソ連の対立をかきたてようとした。実際、すで
に1947年にケナンとそのスタッフは領土問題を呼び起こす
ことの利点について論議している。うまくいけば、北方領土に
ついての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれ
ないと彼等は考えた。 ──マイケル・シャラー著
『「日米関係」とは何だったか』/草思社刊/孫崎亨著
「日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土」/ちくま新書より
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米国側は日本に対し、それとなくソ連に対して領土交渉するよ
うアドバイスしています。それを受けて日本は今まで何十年にも
わたってロシアと不毛の領土交渉を重ねてきています。それはこ
れからも続いていくはずです。だからといって、歯舞群島と色丹
島の二島返還では駄目なのです。 ── [日本の領土/15]
≪画像および関連情報≫
●『「日米関係」とは何だったか』の批評
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歴史とは、つくづく歴史家の主観から逃れられない物語であ
ると思う。また、個々の歴史家の主観のみならず、国籍と国
民意識に根付く主観からでさえ、歴史家は自由になれないの
かもしれない。特に、二国間関係史は、それが如実に表れる
物語である。ある国から見える二国間関係史と相手国から見
える二国間関係史は、程度の差こそあれ、異なる様相を呈す
る。そして、その差異は、そのまま両国における相手国の外
交上の位置付けを反映している。実に、興味深い。M・シャ
ラーの『日米関係とは何だったのか(サブタイトル省略)』
は、その一つの事例を提供してくれる一冊である。主題の通
り、本書は、戦後日米関係史を論じた文献である。本書の紹
介へ移る前に、ここで日米両国における一般的な解釈を簡単
に紹介しておこう。ただし、私自身、お世辞にも読書量が多
いとは言えず、読了文献にも偏り(特に、米国側文献の読了
量は多くない)がある。故に、ここでの説明は、あくまで私
の理解が及ぶ範囲内であるという注釈を付しておく。
http://blog.goo.ne.jp/tamayan81/e/20b2956fd866146379f9b108a0db2ef0
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マイケル・シャラーの本


