2012年10月18日

●「19日間にソ連は何をしたか」(EJ第3409号)

 日本がポツダム宣言の受託を表明した8月15日から、東京湾
上のミズーリ号上での降伏文書に調印した9月2日までの19日
間にはいろいろなことがあったのです。
 この8月15日、トルーマン大統領は、日本降服に関する「一
般司令第1号」を発信しています。次の内容です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命する
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はこの司令が発せられる前に、ソ連のモロトフ外相は米国の
駐ソ特命全権大使、アヴェレル・ハリマンに対し、マッカーサー
元帥と一緒にソ連の極東司令官ワシレフスキー元帥も日本の占領
統治に当らせたいという申し入れを行っています。
 しかし、当時米国内はこうしたソ連の態度に怒りの声が高まっ
ていたのです。どうしてかというと、4年近い年月をかけて厳し
い戦いを行い、やっと終戦に漕ぎつけた米軍に対しソ連は、戦争
の終わる一週間前に参戦したのに、戦勝国面(づら)をするのは
けしからんという怒りです。
 ソ連のスターリン首相も、領土的な野心を持たないことを宣言
した大西洋憲章に同意しているにもかかわらず、それに反する行
動を平気でとっているのです。そういう事情もあって、ハリマン
大使はこの件についてきっぱり拒否したのです。
 そうすると、すぐソ連は厚かましくも「一般司令第1号」には
同意するものの、改めて次の2つの条件を出してきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.クリ―ル諸島には、すべての島嶼が含まれていることを
   確認すること
 2.北海道の留萌と釧路を結ぶ線から以北をソ連軍が占領す
   ることの合意
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連が北海道占領を求めた理由は何かというと、第一次世界大
戦のさい、日本軍がシベリア出兵を行ったことを上げています。
まさに厚かましさの限りですが、これにはソ連のしたたかな計算
があったのです。
 ソ連の狙いはあくまで「1」にあり、それを米国から確認をと
ることにあったのです。おそらくソ連としても──これはあくま
で私のソ連に対する好意的な解釈ですが、ソ連としては択捉・国
後両島は取れると考えていたものの、歯舞群島と色丹島まで取る
ことには若干の躊躇いがあったと思います。
 そこで、どうしても米国側の確認が欲しかったのです。そうい
うわけで、ソ連は絶対に米国が認めない「2」の条件をあえて提
示して断わらせ、「1」を獲得しようとしたのです。ソ連の狡猾
にして巧妙な外交戦術です。
 米国はこのソ連の戦略に見事に乗せられて、「2」については
きっぱり拒否したものの、「1」は基本的に同意したのです。お
そらくトルーマン大統領も、ルーズベルトと同様にソ連の要求を
細部までは検証しなかったのでしょう。これに関しては、次の説
があります。
 それは、米国側としてはソ連に対し、択捉島か国後島に米軍基
地を作りたいという提案をしたが、スターリン首相はこれに激怒
し、拒否したというものです。理解に苦しむ愚かな米国の判断で
あったと思います。
 これは日本の占領統治に関する米国の外交政策の大失敗である
と思います。やはり、トルーマン大統領は、択捉、国後両島以南
は合法的に日本領であるという米国務省のレポートを読んでいな
かったものと思われます。
 昨日のEJで述べたように、もし、トルーマン大統領がこのレ
ポートを読んできちんと対処していたら、択捉島か国後島に米軍
基地を置くことが可能になっていたと思います。東西冷戦におい
てこれが、どれほどソ連に脅威を与えるか計り知れないものがあ
るからです。
 さらにスターリン首相は、極東ソ連軍司令官に対して、2つの
命令を下していたのです。これは、ソ連の共産主義体制崩壊後に
明らかになった事実です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.米国の意向にかかわらず、極東ソ連軍はクリ―ル諸島への
   軍事作戦を行うこと
 2.関東軍将兵の捕虜を千人単位でシベリアに連れて行き、強
   制労働をさせること
―――――――――――――――――――――――――――――
 それどころではないのです。極東ソ連軍は北海道にも上陸作戦
を敢行する予定であったのです。しかし、ワシレフスキー司令官
は、自身の判断で作戦行動はとらなかったのです。なぜなら、北
海道に占領作戦を行うと、確実に米軍との戦闘になると悟ったか
らです。ソ連としては米国との戦闘は避けたかったのです。
 クリ―ル諸島の最北端に占守(しゅむしゅ)島という島があり
ます。1945年8月18日のことですが、ソ連軍は同島に攻撃
をかけたのです。大本営は、8月15日以後は日本軍に武装解除
命令を出していたのですが、同島の守備隊にはそれが徹底されて
いなかったのです。
 もともと占守島の守備隊は米軍に備えて配置されていたのです
が、いきなり攻められ、最初は相手がソ連軍とは気がつかなかっ
たといいます。これについては、2010年に作家の浅田次郎氏
が次の本を上梓して、この終戦直後の戦いについて、多くの国民
が詳しく知ることになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  浅田次郎著/『終わらざる夏』/集英社刊/2010年
―――――――――――――――――――――――――――――
 占守島の戦いは、8月21日に日本軍の降伏により停戦が成立
し、23日に日本軍は武装解除されたのですが、双方に多くの犠
牲者を出す結果になったのです。しかし、他島の日本軍は、一切
抵抗せず、降服したのです。    ── [日本の領土/13]

≪画像および関連情報≫
 ●『終わらざる夏』の書評/姜尚中氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  昭和20年8月15日、天皇の「聖断」によって戦争は終わ
  り、戦後が始まった。しかし、北辺の地、千島列島の先端に
  ある国境の小さな島、占守(シュムシュ)島では、まさしく
  戦端が開かれようとしていたのだ。戦争が終わるとき、戦争
  が始まる。この大いなる矛盾が、戦う兵、死にゆく兵たちを
  巻き込んで炸裂(さくれつ)するとき、戦争の禍々(まがま
  が)しさと非情さ、そして愚かさが胸を打つ。それにしても
  なぜ彼らは無条件降伏を受け入れた国家の意思に反して戦っ
  たのか。明らかに国家に対する反逆であった。しかし彼らに
  は、反逆者としての翳りなど微塵(みじん)もない。天皇の
  ため、国家のためではなく、「ふるさと」のため、愛する者
  のために戦おうとしたからだ。物語は、この辺境の島に奇跡
  的にも温存された精鋭部隊に配属される3人の臨時召集の補
  充兵を中心に、彼らの妻や子供、母親や縁者、教師や友人た
  ちの運命を重層的に描いていく。
     http://book.asahi.com/review/TKY201008310149.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

浅田次郎著『終わらざる夏』/集英社.jpg
浅田 次郎著『終わらざる夏』/集英社
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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