2012年10月17日

●「ルーズベルト大統領の勘違い」(EJ第3408号)

 日本の北方領土が現在でもロシアに実効支配されるようになっ
た原因は、フランクリン・ルーズベルト大統領の勘違いにあると
いう説があります。何を勘違いしたのでしょうか。
 当然のことですが、米国側は共産主義国の首相であるスターリ
ンを信用していなかったし、警戒していたのです。しかし、その
とき米国は、どうしてもスターリンの協力を得なければならない
理由があったのです。米国は一刻も早く日本を降伏に追い込み、
戦争を終わらせ、米国人の死傷者を最小限度に抑えることです。
とくに米国としては、日本本土決戦は避けたかったのです。
 それはソ連を戦争に参戦させることだったのです。そのために
スターリンが米国に要求した代償は、日本の北方領土だったとい
うわけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南樺太およびクリ―ル諸島(千島列島)全島のソ連への返還
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルトは、南樺太およびクリ―ル諸島(千島列島)の返
還というソ連の要求は、それほど法外なものではないと思ったの
です。なぜならルーズベルトは、それらの島嶼が日露戦争によっ
て日本領になったものと勘違いしていたからです。
 そのため、表向きの日本の領土に関する記述のあるポツダム宣
言第8項に次のように書いて、あえて曖昧にしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決
 定する諸小島に限られなければならない
                  ──ポツダム宣言第8項
―――――――――――――――――――――――――――――
 当然のことながら、スターリンはヤルタ会談の裏議定書がある
ので、「吾等の決定する諸小島」の中には、南樺太およびクリ―
ル諸島は含まれないことを確信していたのです。そしてその通り
になったのです。
 昨日のEJで述べたように、1875年のサンクトペテルブル
グ条約によって日本は、樺太の領有権を放棄する代わりに千島列
島を獲得し、これによって千島列島は、戦争ではなく、合法的に
日本領になったのです。しかし、それをルーズベルトは日露戦争
で日本が得たものと勘違いしたのです。
 実は米国務省は、ルーズベルト大統領に北方領土に関する詳し
い経緯についてのレポートを事前に渡していたのですが、ルーズ
ベルトはそれを読んでいなかったのです。これについて、保阪正
康氏は自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルトがヤルタ会談に出席する前に、こうした問題にく
 わしい大学教授がレポートを国務省に託し、国務省のスタッフ
 もルーズベルトのもとにその文書を届けていたという。それに
 はとくに北方四島は日本が平和的に獲得したのであり、もしこ
 れを日本からとりあげるにしてもソ連の領土にするのではなく
 国際連合の信託統治下に置いたほうが好ましい、東西冷戦の時
 代にソ連領には含むべきではないとの見方で貫かれていた。ル
 ーズベルトはこのレポートにまったく目を通さずにソ連を対日
 戦線に引き込もうと、そればかりに意をそそいだ。その意味で
 は北方四島返還それ自体が、たとえアメリカの支援を頼んでロ
 シア側に強くあたろうとしてもまったく無理だというのが歴史
 的事実として存在する。          ──保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連と交渉する前に、ルーズベルト大統領が交渉に重要な影響
を与える国務省のレポートを読んでいなかったことは、大統領と
して大失敗であるといえます。しかし、ルーズベルトは日本の降
伏を見届けることなく急逝しているのです。
 とくに「北方四島は日本が平和的に獲得したのであり、もしこ
れを日本からとりあげるにしてもソ連の領土にするのではなく、
国際連合の信託統治下に置いたほうが好ましい」という意見は正
しく、これを見落としたことは米国外交の失敗であったといわざ
るを得ないのです。
 仮にルーズベルトがこのレポートを読んで、ソ連には南樺太と
択捉島と国後島以南の島嶼をのぞく千島列島をソ連に返還してい
たら、米軍は信託統治の名目で、両島に米軍基地を置くことがで
きたのです。これはソ連にとって相当大きな脅威になったことは
間違いないのです。
 米軍としては、ルーズベルト大統領がソ連へ参戦を促したこと
には、強い反発を覚えていたのです。なぜなら、3年8ヵ月もか
けて日本軍と戦い、大きな損害を負いながらやっと勝利を得た国
と、戦争の最後の一週間前に駈け込み参戦をして、自軍はほとん
ど無傷であるのに、戦利品だけは強欲に受け取ろうとするソ連に
強い反発を覚えていたのです。
 ルーズベルト大統領の急逝に伴い、大統領に就任したトルーマ
ンは、この問題にどのように対応したのでしょうか。トルーマン
はポツダム会談から登場したのですが、老獪なスターリンに翻弄
されながらも、一応すじは通しています。しかし、北方領土につ
いては、ソ連に譲り渡さざるを得なかったのです。
 1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受託を宣言し、
降服の意思を明らかにしましたが、ソ連はその翌日から9月2日
までの19日間にいろいろなことをしてきているのです。これに
ついては、明日のEJで述べることにします。
 ここまで述べてきたように、北方4島は間違いなく日本の領土
であることは明らかです。したがって、今後たとえどんなに時間
がかかっても、日本はその領有権を主張していくべきです。その
ためには、次の時代を担う日本の若者たちが、正しい歴史認識に
立って、事態を把握する努力が求められます。具体的には現代史
を勉強し、正しい事実を知ることです。間違っても、二島返還な
どでこの問題を収めてはならないのです。
                 ── [日本の領土/12]

≪画像および関連情報≫
 ●北方4島へのソ連軍の占領の経緯
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれ、期限は5年
  間として期限終了の1年前に廃棄を通告しない場合はさらに
  5年間延長されと言うものであった。その年8月ドイツ軍の
  ポーランドへの侵攻により第2次世界大戦が勃発し、194
  5年ソ連は日ソ中立条約の廃棄を通告したが条約の規定通り
  なお1年間の有効期限(1946年4月)をも言明した。し
  かしソ連は同年2月米英両国とヤルタ協定を結び、戦争への
  参戦の代償として「樺太の南部及びこれに隣接するすべての
  島々をソ連に返還し千島列島はソ連に引き渡される」と密約
  していた。1945年8月9日、ソ連はヤルタ協定にのっと
  り対日参戦した。同年8月14日、日本がポツダム宣言を受
  諾し、無条件降伏を決めた後の18日、ソ連軍は占守島へ上
  陸、31日までに得撫島を占領し、最終的には北海道の北半
  分(釧路と留萌を結ぶラインから北)を占領することを目標
  としていたが、北海道はアメリカの強硬な反対を受け断念し
  た。しかし北方4島に米軍がいないことを確認すると、ソ連
  軍はそこに兵力を集中させ、8月28日に択捉島、9月1日
  色丹島、2日国後島、3日には歯舞諸島、5日には北方4島
  の占領を完了した。占守島を除く全ての島では日本軍はいっ
  さい抵抗せずに占領は完全に無血で行われ、さらには9月2
  日ソ連は平和条約もないまま千島列島北方4島は自国の領土
  であると宣言をしていた。一方、北方4島にすんでいた人た
  ち1万7000余名の日本人は1948年までに強制的に島
  を追われたのであった。
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_4_1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

北方四島/択捉島.jpg
北方四島/択捉島

posted by 平野 浩 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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