2012年10月16日

●「北方領土はなぜロシア領なのか」(EJ第3407号)

 太平洋戦争の開戦時および敗戦時の外務大臣、東郷茂徳氏の孫
にあたる東郷和彦氏が自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (ソ連の)千島列島の占拠も、太平洋憲章とカイロ宣言にうた
 われた領土不拡大原則に背馳(はいち)していたが、さらに、
 1855年の日露通好条約の締結以来一度も日本領であること
 を疑われたことのない北方領土の占領は、日本国民の心の衝撃
 に止めを刺す形になった。         ──東郷和彦著
             『北方領土交渉秘録』/保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 若い人で、この東郷和彦氏の文章を理解できる人は少ないと思
います。なぜなら、その理解には、現代史の知識が必要ですが、
若い世代は現代史を勉強しておらず、興味を持っている人も少な
いからです。肝心の日本人がそれでは、北方領土は今後何年経っ
ても日本には戻ってはこないでしょう。
 大西洋憲章は「領土的野心は一切ない」ことを宣言したもので
米英は調印し、当時のソ連のスターリン首相も大西洋憲章に同意
することを公式に表明しています。東郷氏の「領土不拡大原則」
というのはそのことを指しています。このことは、10月10日
のEJ第3403号で書いています。
 ところが、カイロ宣言のウラでルーズベルト米大統領とソ連の
スターリン首相は裏議定書を作り、ソ連が日本に宣戦布告するこ
とを条件に南樺太と千島列島の全島をソ連に割譲すると決めて、
ソ連はそれを実行したのです。これは領土的野心そのものであり
大西洋憲章に反しています。それを東郷氏は「領土不拡大原則に
背馳」と書いたのです。
 それでは、1855年の日露通好条約の締結とは一体何でしょ
うか。これについては歴史を振り返る必要があります。
 江戸時代の話ですが、日本の北方は「蝦夷」と呼ばれており、
そこには島がたくさんあるというので、「蝦夷ヶ千島」と呼ばれ
ていたのです。これに対して18世紀以前のヨーロッパでは、カ
ムチャッカから北海道まで──千島列島に歯舞群島、色丹島、北
海道──を全部一緒にして「クリル」と呼んでいたのです。
 江戸時代には松前藩が北海道の一部に「和人地」を作り、徐々
にそれを拡大し、1800年代になると、ほぼ全域に拡大してい
るのです。その他の「蝦夷地」については、松前藩が十分な支配
下に置いていたわけではなく、独自にロシアとの交易を行ってい
た地域もあったのです。
 そういう状況を一変させたのは、1855年に締結された日露
通好条約(日露和親条約)なのです。1855年(安政元年)2
月7日に、伊豆の下田・長楽寺で、日本とロシアの間で締結され
た条約であり、「下田条約」とも呼ばれています。この条約では
千島列島における日本とロシアとの国境を択捉(エトロフ)島と
得撫島(ウルップ)の間としたのです。添付ファイルの4つの地
図のうち「A」がそれに該当します。
 このさい、樺太については国境を設定せず、これまでの慣習の
ままとすることが決まっています。樺太は日露混在の状態のまま
残すことになったのです。これによってもわかるように、択捉島
国後島、歯舞群島、色丹島は日本領であることをロシアは認めて
いるのです。
 実はこの交渉の最中にクリミア戦争が起こっているのです。フ
ランス、オスマン帝国および英国を中心とした同盟軍とロシアと
の間の戦争です。さらに安政の大地震で、ロシアの戦艦「ディア
ナ」が沈没するアクシデントもあったのですが、交渉は継続して
行われ、1855年に締結されたのです。
 その後、ロシアによる樺太開拓が熱心になり、日本人とのトラ
ブルが多発したのです。そこで、樺太をロシア領とする代わりに
それまでロシア領であった千島列島を日本領にするという交渉が
きとまったのです。これが、1875年(明治8年)のサンクト
ペデルブルグ条約です。これによって、日本とロシアの国境は、
添付ファイルの「B」になったのです。
 1905年に日露戦争が日本の勝利に終り、ポーツマス条約に
よって、樺太の南半分は日本領となっています。この条約により
サンクトペテルブルグ条約の樺太・北海道間の国境条項は失効し
ますが、千島に変更はないのです。添付ファイルの「C」がそれ
に該当します。
 そして、この状態で日本は戦争に突入し、敗戦したのです。ソ
連はヤルタ会談の裏議定書なるものを根拠に千島列島の全島に加
えて、日本の領土である択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島まで
根こそぎ占領し、現在も実効支配を続けているのです。これが添
付ファイルの「D」です。
 問題は、日本が択捉島以南は日露戦争以前から日本領であると
しているのに対し、当時のソ連は「千島全島」という表現で、択
捉島と国後島だけではなく、北海道の一部である歯舞群島、色丹
島まで不法にも占領し、実効支配を続けているのです。千島の解
釈の違いを利用したのです。
 こうなる原因を作ったのは、ルーズベルトとトルーマンという
2人の米大統領です。彼らは北方領土に関して現在の日露──当
時の日ソの間に深刻な領土問題が残ることを予測しながら、あえ
てそうしたといわれています。
 その理由は、こうしておくと、日ソの間に領土問題があること
によって平和条約は締結されず、日本がソ連に接近できないよう
にするためです。何としても日本の共産党化を防ぐことに重点を
置いたのです。
 それにしても、ソ連はサンフランシスコ講和条約に出席しなが
ら、調印しなかったのは、ロシア外交史上最大の失敗であるとい
われています。もし、調印されていれば、日ソの間には何ら領土
問題は存在せず、現状が固定されてしまったからです。それだけ
に日本はあくまで四島返還にこだわるべきであり、二島返還で妥
協してはならないのです。     ── [日本の領土/11]

≪画像および関連情報≫
 ●露太平洋艦隊、クリル諸島を巡航/実効支配強化
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロシア太平洋艦隊のマルトフ報道官は、2012年8月25
  日、「ロシア太平洋艦隊の艦艇編隊がこの日、ウラジオスト
  ックを出港し、クリル諸島(日本名;千島列島)を巡航する。
  途中、南クリル諸島(日本名:北方四島)の国後島、択捉島
  に停泊すると発表しました。これは、マルトフ報道官がイン
  タファクス通信に述べたものです。マルトフ報道官は、また
  「第二次世界大戦中、ソ連海軍がクリル諸島とサハリンを解
  放したこと及び、オホーツク市の設立365周年を祝うため
  今回の巡航をおこなう。巡航計画に従い、艦艇編隊は、出港
  してから東北方向に向かって航行し南クリル諸島の国後島、
  択捉島に停泊した後、北へ向かってオホーツク市に到着する
  予定だ」と述べました。
   http://japanese.cri.cn/881/2012/08/26/161s197424.htm
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千島の概念.jpg
千島の概念
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近、日露戦争、朝鮮戦争、零戦燃ゆ、日本占領という本を読んでみました。本当に、現代史について、なんにも知らない事に気づきました。政治家も同じではないでしょうか?

中国の満州も、朝鮮半島もロシアが支配権を強めていたのを、日清、日露の戦争で、日本が跳ね返したたわけですよね。
そのまま放っておけば、中国(清国)は欧米列強にちりぢりにされ、韓国王朝もロシアの一部になっていたわけですよね。いまでもその状況は変わらないわけですよね。その方が良かったのか?

不思議に思うのは、今、中国、韓国が盛んに日本を攻撃しているけれど、ロシアに対しては何も言いませんね。寧ろ、、中国、韓国がロシアの手先になって動いているような感じがしますね。
中国、韓国が太平洋に出て来たいのか?
しかし、中国、韓国の後ろ側には、ロシアがいて、いつでも攻めることができるというのがわからないのかな?
素人が考えても、一番可能性があるのは、第二次朝鮮戦争でしょう?
ロシア、中国の後ろ盾を得た北朝鮮が韓国を占領しやすい状況にありますよね。今、日本の世論は韓国から距離を置いている。アメリカも協力しにくいでしょう。
ロシアが、満州と、内モンゴルと、北朝鮮をとって、中国が韓国をとる。こういう構図じゃないですか?
逆に中国がシベリア、樺太、千島をとる。というのもありえますね。
中国も、韓国も日本やアジア諸国を敵に回すのではなく、ロシアとのつきあい方をうまくやる方法を考える方がずっと重要だと思いますけどね。

以上、素人の意見でした。
Posted by 白頭鷲 at 2012年10月16日 17:49
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