2012年10月15日

●「ダレス国務省顧問は何をしたか」(EJ第3406号)

 太平洋戦争に破れた日本は、1945年8月14日にポツダム
宣言の受け入れを表明し、9月2日に東京湾上の米戦艦ミズーリ
艦上で調印が行われたのです。日本の敗戦が正式に決まった瞬間
です。それからサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が
締結されるまでの6年間、連合軍(米軍)による日本占領統治が
行われたのです。
 そのとき、活躍したのは、当時米国務省顧問を務めていたジョ
ン・フォスター・ダレスです。このダレスという人物は、日米安
全保障条約の「生みの親」といわれていますが、日本の領土問題
にも深くかかわっている人物であることを知っておく必要があり
ます。非常に強い反共産主義者であり、日本や韓国が共産主義国
になることを何よりも警戒していたのです。なお、ダレスは19
53年〜1959年まで、アイゼンハワー大統領の下の国務長官
を務めています。
 ダレスは、サンフランシスコ平和条約の調印国になることを要
望していた韓国に対し、それを拒否しています。表向きの理由は
「日本と戦争状態になかった」というものですが、本当の理由は
李承晩大統領が次の要求をしていたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   対馬、波浪島(現蘇岩礁)、竹島は韓国領土である
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して反発した韓国の李承晩大統領は、李承晩ラインを
勝手に設定し、一方的に竹島を占領してしまったのです。サンフ
ランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日よりも数ヵ
月前のことであり、日本が独立国家として何もできない時期に韓
国はこの暴挙を行ったのです。時のジョン・ムチオ駐韓米大使は
説得不調に終わった責任を取って辞任しています。
 また、1956年8月19日にダレスは重光葵外相とロンドン
で会談したとき、日本の対ソ和平工作を牽制し、次のように重光
外相に釘を刺しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 北方領土の沢捉島(エトロフ)と国後島(クナシリ)の領有権
 をソ連に主張すべきだ。もし、二島返還(歯舞群島/色丹島)
 で妥結などしたら、沖縄返還はないと考えてもらいたい。
      ──ジョン・フォスター・ダレス国務長官(当時)
―――――――――――――――――――――――――――――
 米軍による日本占領の6年間、ダレス国務省顧問は吉田首相と
話し合い、講和条約案について議論しています。そのなかで領土
に関しては、日本が東西冷戦の西側に立つという前提において、
領土が米国の軍事基地として機能させるという観点から、協議さ
れ議論されているのです。これについて、保阪正康氏は自著で次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 講和条約がつくられていくプロセスを見ていくと、国務省顧問
 のジョン・フォスター・グレスと吉田茂との間でなんども話し
 合いが行われているが、むろんダレス主導であることはまちが
 いない。吉田もまた基本的にはその方向に沿っての発言を行っ
 ている。これはどういうことかというと、吉田はダレスが企図
 している東西冷戦下の西側陣営の結束をなによりも大切にして
 いて、日本の領土がアメリカの施政権のもと軍事基地として機
 能することに反対していないということがわかるのだ。その点
 では、領土問題は戦後政治の枠組みの中で、国民感情などは無
 視される側面をもっていたともいえる。   ──保阪正康著
              「歴史でたどる領土問題の真実/
          中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンフランシスコ講和条約(平和条約)の会場で、吉田首相は
日本の領土に対し、次の演説を行っています。とくにソ連に関し
ては強く異議を申し立てています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一に領土問題について奄美大島、小笠原群島、その他国連の
 統治信託に置かれる諸島の主権が日本に残されるという米・英
 全権の発言は多大の喜びをもって了承いたします。これらが一
 日も早く日本国の行政の下に戻ることを期待するものでありま
 す。千島列島、南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したと
 いうソ連の主張には承服いたしかねます。(ここで吉田は歴史
 的経緯を述べたあと)千島列島と南樺太は日本降伏直後の19
 45五年9月2日、一方的にソ連領に収容されたものでありま
 す。また北海道の一部を構成する歯舞諸島、色丹島もソ連軍に
 占領されたままであります。  ──保阪正康著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンフランシスコ講和条約は、51ヶ国の出席国のうち48ヶ
国が調印しています。3ヶ国は調印していないのです。それは、
ソ連とチェコとポーランドの共産圏の3国です。このほか、中国
と韓国は招待されていないのです。
 韓国については、日本との領土問題で強い主張を行っていたの
で、米国によって参加を拒否されことは先述した通りです。中国
──中華人民共和国に関しては、米国と英国の意見が合わず、参
加が見送られています。
 中華人民共和国(現在の中国)は、当時英国は承認していたの
で、中国の参加を求めたのですが、米国は承認しておらず、参加
を認めなかったのです。
 講和会議に出席しながら調印を拒否したソ連、参加を認められ
なかった中国と韓国──結局、これら3国との間には、講和会議
から60年を経過した現在も、領土問題が解決しておらず、紛争
の種が残されたままなのです。
 領土というものは、一度でも奪われたらなかなか戻ってはこな
いのです。そういう意味からすると、沖縄が日本に戻されたのは
奇跡に近いことであり、日本はそのことを十分意識して米国との
外交交渉に当るべきであると思います。そういうことは時の経過
とともに忘れられてしまうからです。── [日本の領土/10]

≪画像および関連情報≫
 ●講和条約での領土に関する吉田首相の演説
  ―――――――――――――――――――――――――――
  千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したも
  のだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開
  国の 当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であ
  ることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつた
  のであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当
  時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日
  日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領と
  し、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合を
  つけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南
  部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太
  南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大
  統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領と
  なつたのであります。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直
  後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたので
  あります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色
  丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したた
  めにソ連軍に占領されたままであります。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

講和条約での吉田首相演説.jpg
講和条約での吉田首相演説
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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