2012年10月10日

●「ヤルタ会談における裏議定書」(EJ第3403号)

 日本の領土決定に重要な関わりを持つ宣言、会談、条約の2つ
目は、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた「ヤル
タ会談」です。
 この会談は、ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、
スターリンソビエト連邦首相による首脳会談です。会談は、2月
4日〜11日までの8日間にわたって行われ、日本の問題は5日
目、2月8日にテーマに上がっています。
 そのとき太平洋戦争の戦況はどうなっていたでしょうか。ヤル
タ会談の前年の1944年は、6月に米軍のサイパン上陸作戦が
行われ、日本軍が玉砕しています。7月には東條英機内閣が総辞
職し、小磯国昭内閣が成立。10月23日にはレイテ沖海戦で日
本海軍は敗北し、戦艦武蔵が撃沈されるなど、まさに誰の目にも
明らかに日本は敗色濃厚になっていたのです。
 実は、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、1941
年8月9日に「大西洋憲章」に調印しています。この憲章は第2
次世界大戦後の世界構想の構築に関わる国として、基本的には米
英両国は領土的野心は一切ないことを世界に宣言したものです。
憲章は次の8項目から成るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.    合衆国と英国の領土拡大意図の否定
   2.領土変更における関係国の人民の意思の尊重
   3.      政府形態を選択する人民の権利
   4.             自由貿易の拡大
   5.             経済協力の発展
   6.      恐怖と欠乏からの自由の必要性
   7.           航海の自由の必要性
   8.  一般的安全保障のための仕組みの必要性
                ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この太西洋憲章については、ソ連のスターリン首相も、憲章が
発表された約1ヵ月後の9月14日に大西洋憲章について、次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルト米大統領とチャーチル英国首相の大西洋憲章の基
 本的原則、現在の国際情勢において極めて大きな意義を有して
 いる主要な諸原則に同意することを表明する。──保阪正康著
              「歴史でたどる領土問題の真実/
          中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この大西洋憲章の第3条「政府形態を選択する人民の権利」に
ついては、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で意見が一
致しなかったといわれています。
 ルーズベルト大統領は、これが世界各地で適用されるべきだと
考えていたのに対し、チャーチル首相はナチス・ドイツ占領下の
ヨーロッパに限定されるべきだと考えていたからです。英国は、
アジア・アフリカの自国の植民地にこの第3条の考え方が適用さ
れるのに反対だったのです。
 このとき、ナチス・ドイツと日本が敗戦に追い込まれることは
ほとんど確定しており、第2次世界大戦が終了するのは時間の問
題だったのです。そうなると、戦後のヨーロッパとアジアをどの
ような勢力図に置き換えるが問題になります。ヤルタ会談は、そ
の基本的な枠組みをあらかじめ決めておくための話し合いの場で
あると解釈できます。だからこそ、首脳会談としては8日間とい
う長い時間を要したのです。
 5日目の2月8日、アジア問題が取り上げられたのですが、話
し合いはもっぱらルーズベルトとスターリンの間で話し合われた
のです。そして、この3首脳は戦後の日本に関して「裏議定書」
なるものを作っているのです。その条件は、ソ連が満州国の関東
軍に対して宣戦布告し、日本を南と北から挟撃する作戦に同意す
ることだったのです。
 しかし、ときあたかも太平洋戦争は、硫黄島の戦いがはじまる
直前であって、ほとんど日本の敗戦は決定していたのです。なぜ
米国はソ連に参戦を求める必要があったのでしょうか。
 それは、絶望的な戦いに入った日本軍が特攻作戦を行うなどの
捨て身の作戦に出たことで、米軍の犠牲者が増加したことが原因
なのです。そのため、早期戦争終結を望む国内世論が高くなって
きていたからです。
 ルーズベルトから参戦を求められたソ連のスターリンは次のよ
うに答えたそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は今のところとくべつにソ連に対して脅威を与えているわ
 けではない。確かにドイツに対してはソ連国民は一致して戦っ
 ているが、日本との戦闘には相応に国民を納得させる理由が必
 要である。  ──スターリン首相/保阪正康著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連は日本と不可侵条約を結んでおり、簡単には米国の誘いに
は乗れないとやんわり拒否したあと、対日戦争に参加する代償と
して、次の2つの条件を出してきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.       南樺太のソ連への返還
     2.クリ―ル諸島(千島列島)の全島返還
―――――――――――――――――――――――――――――
 スターリンの交渉は実に巧みであり、ルーズベルトをうまく丸
め込んだのです。それにルーズベルトは、千島列島は日露戦争の
結果、日本の領土になったと勘違いし、この不当なソ連の申し入
れを受け入れてしまったのです。そして、これが裏議定書になっ
て、不当にもソ連は、それを言質にとって、日本がいう北方領土
(千島列島)をすべて奪い取ったのです。つまり、ソ連による北
方領土占有は、ルーズベルトの勘違いが原因なのです。北方領土
の問題には米国は関係ないと思っている人は多いですが、米国が
深くかかわっているのです。    ── [日本の領土/07]

≪画像および関連情報≫
 ●極東密約(ヤルタ協定裏議定書)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスター
  リン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密
  協定。1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐
  ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)
  南部や千島列島などの領有を要求しており、これに応じる形
  でルーズベルトは千島列島などをソ連に引き渡すことを条件
  に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を
  促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられて
  いる。この協定では、ドイツ降伏後90日以内にソ連が対日
  参戦すること、モンゴルの現状を維持すること、樺太(サハ
  リン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡
  すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益の確保などが
  取り決められた。          ──ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ヤルタ会談」の英米ソ3首脳.jpg
「ヤルタ会談」の英米ソ3首脳

posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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