条約が行われた年月を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
カイロ宣言 ・・ 1943年11月22日
ヤルタ会談 ・・ 1945年 2月 8日
ボツダム宣言 ・・ 1945年 7月26日
サンフランシスコ平和条約 ・・ 1951年 9月 8日
―――――――――――――――――――――――――――――
カイロ宣言が行われた1943年11月22日──日本軍は、
4月に山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死
するなど、米軍の攻勢に押され、劣勢に立たされていたのです。
そして、カイロ宣言の前日には、米軍によるマキン島、タラワ島
上陸作戦が敢行され、日本軍は玉砕しています。
しかし、米軍から見ると、中国本土における日中戦の状況がい
まひとつ見えていなかったのです。そのため、ルーズベルト米大
統領は、蒋介石総統を呼び出して情報を探ろうとしたのです。そ
のカイロ宣言における日本に対する要求を整理すると、次の4つ
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.第一次大戦の開始以後に日本が奪取し、占領したドイツ
領であった南洋諸島を返還する
2.満州、台湾及び澎湖島など、日本が清国から盗取した一
切の地域を中華民国に返還する
3.日本が暴力及び貪欲によって略取した一切の地域から日
本は駆逐されるべきであること
―――――――――――――――――――――――――――――
「1」について考えてみます。
第一次世界大戦でドイツが敗退すると、ドイツは海外植民地を
すべて失い、そのとき連合国側であった日本は、1922年、ベ
ルサイユ条約によって、赤道以北の旧ドイツ領のニューギニア地
域を委任統治することになったのです。まさに棚からボタ餅でこ
の地域を手に入れたのです。
日本はその後、開拓のため南洋庁をパラオ諸島のコロール島に
置き、サイパン島などの島嶼を次々と開拓したのです。国際連盟
脱退後は、パラオやマリアナ諸島、トラック諸島などは海軍の停
泊地として使っていたのです。カイロ宣言での「1」は、これら
南洋諸島をすべて返還せよというものです。
続いて「2」について考えます。
カイロ宣言のこの「2」こそ中国が、台湾及び尖閣諸島が中国
固有の領土であると主張する拠り所なのです。確かに台湾につい
ては当時日本が領有していたので、戦争に負ければ返すのが当然
ですが、「盗取した」という表現は事実誤認です。
台湾は、日清戦争の結果、下関条約によって、清朝(当時の中
国)から日本に割譲されたのであり、「盗取した」という表現は
穏やかではないからです。しかし、尖閣諸島については、後述す
るようにそこにはいろいろな議論があるのです。
最後に「3」について考えます。
「暴力及び貪欲によって略取した一切の地域」が具体的に何を
指しているのかは、はっきりしていません。ノンフィクション作
家の保阪正康氏は自著で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
蒋介石政府がこのカイロ宣言に加わっていたためもあり、とに
かく近代日本が中国から獲得した領土や地域はすべて中国に返
還されるというのが、このカイロ宣言の眼目とすべき軸であっ
た。この条文のなかで、「暴力」とか「貪欲」という表現自体
がきわめて暖味なのだが、これは太平洋戦争後に日本が獲得し
た地域、あるいは占領地行政を行っている地域を指していると
いうことだろう。つまり太平洋戦争の日本の戦果そのものを根
幹から否定することになる。 ──保阪正康著
「歴史でたどる領土問題の真実/
中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
太平洋戦争前後の現代史を学ぶとき注意しなければならないこ
とは、中華民国と中華人民共和国(現在の中国)の違いです。太
平洋戦争の終わりまでの中国は蒋介石の率いる中華民国です。
中華民国は、1930年代から日中戦争を挟んで「国共内戦」
を行っていたのです。国共内戦とは、中華民国政府率いる国民革
命軍と中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行なわれていた内
戦のことです。中国工農紅軍のバックにはソ連が控えており、支
援を行っていたのに対し、中華民国に対しては米国が支援をして
いたのです。
1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、中華民国の
蒋介石総統はソ連と不可侵条約を締結し、国内の共産主義勢力と
手を結んで、国難に対処することになったのです。紅軍(共産党
軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として、形式上は国民党軍
の指揮下に組み込まれ、日本と戦ったのです。
太平洋戦争終結後も中華民国は、共産党勢力と戦闘を続けるこ
とになります。しかし、ソ連から潤沢な支援を受ける中国共産党
率いる中国人民解放軍が、米国からの支援を打ち切られた中国国
民党率いる中華民国国軍よりも優勢になり、1949年には共産
党政党による一党独裁国家である中華人民共和国が樹立したので
す。これが現在の中国です。
そこで蒋介石総統は台湾への撤退を決意します。そして、残存
する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などを国家の存亡をか
けて台湾に運び出し、最終的に1949年12月に中央政府機構
も台湾に移転して台北市を臨時首都にしたのです。
この中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初は
台湾への軍事的侵攻も考えたのですが、1950年に勃発した朝
鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなったので、人民解放軍による
軍事行動はストップしたのです。これが現在の台湾なのです。
── [日本の領土/06]
≪画像および関連情報≫
●東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解く
―――――――――――――――――――――――――――
基本的には、カイロ宣言にそった形で国境線が定められたと
いえる。ただ、この講和条約において「台湾及び澎湖諸島」
という限定された形で国境線がひかれ、沖縄については、小
笠原諸島とともに、アメリカの信託統治のもとにおかれるこ
とになったことに注目しておきたい。沖縄には尖閣諸島も含
められるとされ、1972年の沖縄復帰とともに日本政府が
実効支配するもととなった。この講和条約を交渉した講和会
議には、当時の中華人民共和国も参加していない。また、台
湾の中華民国も参加していない。講和条約について、日本国
内では、米英などの資本主義諸国中心に講和条約を結ぶとい
う単独講和論と、ソ連や中華人民共和国とも結ぶべきである
全面講和論が対立していた。いわば、その当時の単独講和論
の問題点が現在に引き継がれたかっこうになっている。当時
中華人民共和国も中華民国もどのような見解をもっていたか
ということを表明される機会もなく、いわば中国の合意ぬき
で講和条約は結ばれ、国境線が確定されていったのである。
そして、中華人民共和国によれば、沖縄の日本復帰が日米で
合意された1971年に日本に対して尖閣諸島の帰属につい
て異議申し立てをしたということになるといえる。そして、
これは、アメリカ中心で再編成された東アジアの政治秩序へ
の異議申し立てにもなっているといえる。
―――――――――――――――――――――――――――
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/09/26/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3%E3%81%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E9%A0%98%E6%9C%89%E3%81%AE%E6%A0%B9%E6%8B%A0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A4%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E3%82%AB%E3%82%A4/
「歴史でたどる領土問題の真実」/保阪 正康著


