論をめぐってさまざまな議論があります。コンスタンツェについ
てのいくつかの評価を上げておきます。
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・良くないしつけによって身につけた欠点を持ち、普通の女性
には備わっている繊細な感情が不足している
・コンスタンツェの文章を見ると、優しさはどこにも見当たら
ず、精神、気品、ユーモアのセンスに欠ける
・所作は上品で、気立てが良く、好感が持て、モーツァルトが
全面的な信頼を寄せるに足りる愛すべき女性
・事務的能力はあるが、家事は嫌いで、九柱戯やダンスが好き
で、夜遊びにふけるのが好きなところがある
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このように評価が大きく分かれていますが、どちらかというと
コンスタンツェは家庭向きの女性ではなかったようです。文中に
ある「九柱戯」というのは、宗教的儀式に由来するボーリングの
元祖のようなゲームです。要するに、コンスタンツェは賭け事の
好きな遊び好きの女性というイメージが浮び上がります。
実際にコンスタンツェは、旅先のモーツァルトから少しでもお
金の入るような手紙が届くと、その前祝いだと称して、男友達た
ちと行きつけのお店でパーティを開くような女性だったのです。
コンスタンツェの母親のセシリアについては、このテーマの前
半部分でしばしば取り上げていますが、次女のアロイジアに失恋
したモーツァルトを一計を案じてコンスタンツェと結婚させると
いう作戦参謀的な能力に優れた女性であったようです。
30代で未亡人となったコンスタンツェが頼りにしたのは、や
はり母親のセシリアだったのです。コンスタンツェは、モーツァ
ルトの死後、かつて母親がやったようにアパートの一部屋を間貸
しできるよう改造して、下宿屋をはじめています。
そしてモーツァルトがそうであったように、その部屋を貸した
デンマーク公使館書記官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと結婚
しているのです。ニッセンは37歳の独身者で、コンスタンツェ
よりも2つ年上だったのです。
このニッセン――大変なモーツァルト崇拝者であり、それもコ
ンスタンツェとの結婚を決意した理由のひとつだったと考えられ
ますが、コンスタンツェのアパートには500篇以上のモーツァ
ルトの作品の自筆譜が未刊のまま保存されているのを見て仰天し
たといわれています。
モーツァルトの作品で、生存中に発刊されたのは70作品ほど
でしかなく、コンスタンツェはその残りの430篇ほどの作品の
価値があまりわかっていなかったように考えられます。ニッセン
はこれは大変なビジネスになると判断したのでしょう。
さて、モーツァルトはなぜ若死にしたのでししょうか。
もし、アクア・トファナのような遅効性の毒薬を使って毒殺さ
れたとすれば、それを実行できるのは、コンスタンツェかジュス
マイヤーしかいないのです。ちなみに、家庭でのコンスタンツェ
は家事のほとんどを女中まかせにしており、食事の支度などはし
ていなかったようですが、毒薬を使う機会はいくらでもあったと
考えられます。
既出の藤澤修治氏によると、モーツァルトを毒殺したとみられ
るのは、コンスタンツェと母親のセシリアであるとしています。
その概要については、以下に述べますが、これについての詳細は
藤澤氏の次の論文を参照していただきたいと思います。
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藤澤修治著/モーツァルト論を再考する−5
『モーツァルトの死』
http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
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その殺害の動機は何でしょうか。
それはモーツァルトの借金であると考えられるのです。コンス
タンツェの母のセシリアは、夫のフリードマン・ウェーバーが写
譜の仕事をしていたこともあり、娘たちの音楽教育にも力を入れ
ていたので、多少音楽のことはわかっていたのです。
夫のフリードマンはモーツァルトの才能に惚れ込んでおり、つ
ねづねモーツァルトはやがて高名な音楽家になるといっていたの
で、セシリアは策略を用いてモーツァルトと自分の娘のコンスタ
ンツェを結婚させたのです。
ところが、そのモーツァルトはなぜか莫大な借金をこしらえる
ようになり、そのうちの一人の債権者であるリヒノフスキー侯爵
は、モーツァルトが亡くなる1791年の春にモーツァルトに対
して借金返還の訴訟を起こしてきていたのです。
リヒノフスキー侯爵といえば、既にEJ第1939号でご紹介
しています。彼は、1789年春にモーツァルトに対し、プロセ
インの国王フリードリッヒ・ウィルヘルム2世の訪問に自分と同
行するよう要請してきた貴族です。
その結果モーツァルトは、そのための借金をして、リヒノフス
キー侯爵と一緒に2ヶ月もの間、意味のない旅をさせられること
になったのですが、その真の狙いはまだわかっていません。
EJ第1939号では、サリエリを中心とする宮廷のイタリア
系音楽家の一派の陰謀によって、モーツァルトにできるだけ金を
使わせ、モーツァルトとコンスタンツェの間を引き離して、作曲
意欲を削ぐのが狙いと書きましたが、モーツァルトは、そのリヒ
ノフスキーからも莫大な借金をしていたのです。
リヒノフスキーから訴訟を起こされたことで心配になったコン
スタンツェは母と相談したと考えられます。なぜなら、モーツァ
ルトはリヒノフスキーだけでなく、友人のプフベルクやラッケン
バッヒャーという金融業者からも大金を借りており、このままで
は危ないと考えたからです。
これら3者からの借金の総額はその時点で4000〜5000
フローリンと考えられるのです。・・・ [モーツァルト58]
≪画像および関連情報≫
・ゲオルク・ニッセンについて
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ニッセンと言えば「モーツァルト伝」(1828)を著した人物
として、そしてモーツァルトのお陰で名を残した人の1人と
いえるでしょう。モーツァルトがいたから名を残すことがで
きた人は多いのですが、この人はモーツァルトを利用して名
を残した人?ともいえるかも知れません。さて、この人物と
はどのような人だったのでしょうか。多くのモーツァルト周
辺の有名な人のために話題にあまり上ることがなく、さほど
知られている人物とはいえないかもしれませんが、彼こそ今
モーツァルトを知る上で最も基礎となる「書」著した人なの
です。モーツァルトとは5歳年下になりますが、モーツァル
トの死後18年経って、妻であったコンスタンツェと結婚し
ています。この結婚生活は彼が65歳で亡くなるまで17年
間におよんでいます。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/nissen.htm
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