昨年末には例年になく、次の3つの「第九」がほぼ同時にリリー
スされたのです。
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ベートーヴェン作曲 交響曲第9番二短調作品125≪合唱≫
1.佐渡 裕指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
ワーナー/WPCS―11420
2.小沢征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
フィリップス/UCCP−9424
3.ラトル指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
EMI/TOCE−55505
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これら3つの「第九」は、いずれもライブ録音であり、しかも
特別価格1980円で手に入れることができます。私は3つとも
購入して聴いてみましたが、演奏はいずれも満足すべきレベルに
達しています。3枚とも購入してもソンはないと思います。
3人の指揮者の中で一番年齢が若いのは佐渡裕の41歳です。
佐渡の「第九」の録音は、2002年8月17日に横浜のみなと
みらいホールにおいてライブで行われています。そのため「真夏
の第九」といわれているのです。
「佐渡の指揮は熱い」といわれるので、若さにあふれた豪快な
第九を予想する人が多いかも知れませんが、実際は和声が重層的
に耳に届くように全体の音量はバランスがよく制御され、緊張感
をはらんで曲が展開されていきます。
第3楽章のカンタービレも十分美しく、最近の佐渡の進境ぶり
をよく表わしています。そして、佐渡の真骨頂ともいうべき第4
楽章もよく全体が抑制され、バリトンの福島明也をはじめとする
独唱陣の健闘によってスケールの大きい演奏となっています。
印象に残ったのは、第4楽章で最初に歓喜の主題があらわれる
前の異常に長いゲネラルパウゼ――総休止です。オーケストラで
第1楽章の主題、第2楽章の主題、第3楽章の主題の断片が次々
とあらわれては否定され、最後に歓喜の主題が低弦部からあらわ
れる直前の休止のことです。このゲネラルパウゼは明らかに長く
7秒ほど静寂が続くのです。
これは、練習のときには起こらず、本番のときに起こった現象
なのです。直前の和音が完全に消えて、歓喜の旋律があらわれる
までの自然な呼吸の発露として生じたもので、この演奏に関して
はきわめて効果的であったといえます。
3人の指揮者の中で最年長者は、もちろん小澤征爾の66歳で
す。既に述べたように、オザワにはベートーヴェンの交響曲全集
がまだないのですが、今回の「第九」の録音によって、サイトウ
・キネン・オーケストラによる全集が完成したことになります。
サイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの交響
曲チクルスは、1993年の交響曲第7番からスタートし、今年
の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」における「第九」
で遂に完結したのです。
オザワの「第九」は、基本的には佐渡の「第九」に通じるもの
があります。佐渡が指揮している新日本フィルハーモニー交響楽
団は、オザワの育てたオーケストラであり、当然といえば当然の
ことです。
しかし、そうはいっても佐渡の演奏には良い意味での「若さ」
があり、オザワの演奏には年齢による「渋さ」を感じます。演奏
は、不自然な誇張感を徹底して排除し、あくまでも響きの美しさ
とアンサンブルとしての緻密さを背景に、作品に盛り込まれたメ
ッセージを高らかに、熱く歌い上げた質の高い「第九」として仕
上がっています。
ちなみに「ライブ録音」といっても、コンサートで演奏したま
まをCD化するのではないのです。オザワの演奏にしても、特定
の部分を録音する「セッション録音」を何度かやっています。ラ
イブ録音部分を中心として、それにセッション録音部分を編集し
てCDを完成するのです。
3番目の「第九」は、サイモン・ラトル指揮によるウィーン・
フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。サイモン・ラトルは47
歳の現在最も注目されている英国の指揮者であり、2002年9
月7日にベルリン・フィルの首席指揮者(芸術監督)に就任した
ばかりの新しい「ベルリンの顔」ともいうべき存在です。
ラトルの「第九」は、佐渡やオザワの「第九」とは、全く異質
の「第九」になっています。この「第九」は、2002年の5月
12日と14日の両日、ウィーンのムジークフェラインザールで
ライブ録音されています。
ここ数年にわたりラトルは、ウィーン・フィルの方から申し出
のあったといわれるベートーヴェンの交響曲全集の録音をやって
きており、この「第九」ですべて完結したことになります。
とにかく、ウィーン・フィルのラトルに対する熱の入れ方は大
変なものであり、絶対に置かないという慣例を破って首席指揮者
として迎えようかという検討まで行ったといわれているのです。
ラトルは、ベートーヴェンの交響曲全集の録音に当って、ウィ
ーン・フィルにベートーヴェンの演奏方法を変えるよう説得して
います。そういうこともあって、ラトルの「第九」は、非常に表
情の濃厚な「第九」として仕上がっています。その解釈にしても
響きにしても佐渡やオザワの「第九」とは一線を画す新しい「第
九」の顔が見えます。
とくに第3楽章について音楽評論家の小石忠男氏は「この楽章
の最高の名演のひとつ」と折り紙をつけています。第4楽章につ
いても、ラトルが手塩にかけて育てたバーミンガム市交響合唱団
の合唱が際立っており、力に満ち溢れた名演となっています。
これら3つの「第九」は、それぞれに個性があり、とくに佐渡
とオザワの「第九」のあと、ラトルの「第九」を聴くと、その違
いがとてもよくわかります。明日からは、宇宙の話に戻りますが
サイモン・ラトルについては改めてとり上げます。
