に挑戦する」のテーマは本日で56回になります。しかし、まだ
まだ書くべきことがたくさんあります。
本来であればどんなに長いテーマでもこのあたりでしめくくる
のですが、ちょうど年末に当たっており、次のテーマは新年から
はじめたいと考えているので、このまま年内はモーツァルトを続
けることにします。
モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが悲惨な埋葬を
されている事実について、どういうわけか、さまざまなウソを並
べてそれを正当化しようとしています。
モーツァルトの死の6年も前に廃止されたウィーンの葬祭法を
持ち出してきたり、実際は悪天候でない葬儀当日の天候を悪天候
ということにして、それを葬列が墓地まで行かず引き返した理由
にしたり、葬儀を放り出して姿を消したコンスタンツェをなぜか
過剰にかばったり・・・とにかく事実を隠蔽しようとする必死の
努力をしているのです。
もうひとつ見逃せないのは、著名なモーツァルト伝記作家の一
人であるカール・ベーアは、その著作『モーツァルト、病気、死
埋葬』において、当時モーツァルトの人気は終焉しており、それ
が葬儀においてグルックやハイドンのような特別な計らいを受け
られなかった理由にしていることです。
これは誠に支離滅裂な理由であるといえます。モーツァルトの
天才ぶりは、彼が死去した1791年の『魔笛』をはじめとする
作品だけでも十分過ぎるほどなのです。だからこそ当時ウィーン
の音楽界を仕切っていたあのサリエリでさえ、モーツァルトの才
能を認め、その影におびえたのです。
しかし、当時の貴族から見た場合、音楽家としてのモーツァル
トの影響力はかなり薄くなっていたことは確かなのです。それは
それまでモーツァルトの重要な収入の柱であった予約演奏会が激
減したことにあります。
予約演奏会とは、ある曲を作曲・演奏することをあらかじめ告
知し、参加者(ほとんどは貴族)を募る演奏会の形式であり、当
時のモーツァルトにとっては音楽家としての自分を売り込む絶好
のチャンスであり、同時に有力な収入源のひとつだったのです。
それでは、なぜ、予約演奏会が減ったのでしょうか。
それはモーツァルトの人気が凋落したわけではなく、戦争が起
こったからなのです。その戦争とは、1787年〜92年にかけ
て起こったロシア・トルコ戦争なのです。
このとき、オーストリアはロシアの同盟国であり、ヨーゼフ2
世はロシアを助けるため対トルコ戦争をはじめたのです。この戦
争によって物価は高騰し、戦費調達のため増税が行われたので、
ウィーンの市民は苦しい生活を強いられることになったのです。
モーツァルトの重要な顧客であった貴族は続々と出征し、また
は領地に帰ってしまったため、予約演奏会を開こうとしても誰も
参加しない状況がモーツァルトの死まで続くのです。カール・ベ
ーアがいうモーツァルトの人気の終焉とは、このときの状況を指
していっていることなのです。
この時期にモーツァルトが作曲した曲を上げると、当時の世相
を反映していることがわかります。
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コルトダンス『戦闘』/KV535
ドイツ語軍歌『我は皇帝たらんもの』/KV539
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話は変わるが、コンスタンツェの妹のゾフィーは、モーツァル
トが死去した1791年12月5日に、ヨーゼフ・ミューラーが
美術館から駆けつけてきて、モーツァルトのデスマスクを作成し
たことをニッセンに宛てた手紙に書いています。
ヨーゼフ・ミューラーの実名は、ヨーゼフ・ダイム伯爵で、蝋
人形のコレクションを持っていたといわれます。ヨーゼフ・ダイ
ム伯爵はデスマスクをコンスタンツェに贈ったのですが、後日コ
ンスタンツェは間違ってかわざとか、このデスマスクを床に落と
して壊してしまったとき次のようにいったといいます。
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昔の醜いものがこわれてよかった。――コンスタンツェ
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コンスタンツェはモーツァルトのどういうところに怒っている
のでしょうか。まるで夫を憎んでいるようです。モーツァルトの
葬儀をどのようにするか、コンスタンツェはどのようにもできた
のです。葬儀費用にも事欠いていたというのは偽りであり、コン
スタンツェとしては、何が何でもモーツァルトの遺体を人目に触
れさせたくなかったとしかいえないのです。既出のフランシス・
カーは次のように書いています。
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もし、コンスタンツェが、モーツァルトの最後の処遇に少しで
も反対したとすれば、あの恥ずべき埋葬を差し止めることがで
きたであろう。自分の不愉快な思いをあとで記録に残しておく
こともできたはずである。しかし、コンスタンツェは、夫の最
後の安息の場としての共同墓穴について非難することはまった
くしなかった。モーツァルトが死んで1日2日して、ヨーゼフ
・ダイナーはコンスタンツェに会い、共同墓穴の上に、十字架
かなんらかの目印を立てるようしきりと頼んだが、彼女は「教
会にやらせなさい!」といって拒否したという。司祭も同じよ
うに拒否したため、結局十字架も目印も立たなかった。
――フランシス・カー著
横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
音楽之友社刊
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夫の遺体を徹底的に隠すという意思がコンスタンツェに働いた
としたら、それは何らかの陰謀があったと考えざるを得なくなり
ます。 ・・・・ [モーツァルト56]
≪画像および関連情報≫
・モーツァルト当時の演奏会
劇場の使えない日には、旅館、カジノ、ダンスホールといっ
た場所の多目的な空間が演奏会に用いられた。モーツァルト
もしばしば登場した代表的な場所としては、ダンス・ホール
を備えたレストラン兼旅館のメールグルーベや、モーツァル
ト自身一時期そこに住んでいた出版業者トラットナーの邸宅
の中にあるカジノなどがあり、夏期にはアウガルテンのよう
な庭園でも野外演奏会が行われた。メールグルーベやトラッ
トナー邸の収容人員は劇場に較べるとはるかに少なくほぼ百
数十名といった所であったが、こうした所で演奏会を開こう
とする場合には、まず名簿を回覧して予約者を募り、ある程
度の人数が見込めたところで開催する、いわゆる予約演奏会
の形を取るのが普通であった。モーツァルトが1784年3
月にトラットナー邸で行った演奏会の予約者名簿には、当時
のウィーンを代表する貴族や富裕市民たちの錚々たる名前が
174名も連ねられている。
http://homepage3.nifty.com/jy/essays/mz_concert.htm
