モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが妻のコンスタン
ツェをはじめとする家族や友人たちから冷たい最後の見送りを受
けて聖マルクス墓地に送られ、名もない貧民と同等の扱いで共同
墓地に葬られたことについて、数々の言い訳がましい理由を並び
立て、その正当性を主張しています。
なぜ、そのような言い訳をするのでしょうか。どのような葬儀
をするかはモーツァルト家の問題であり、伝記作家たちは、事実
をそのまま伝えればよいのです。少なくとも言い訳をする必要な
どないはずです。
モーツァルトの伝記作家たちが言い訳の根拠として使っている
のは、次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.葬儀当日の6日が風雨の強い荒天候であったこと
2.当時ウィーンの葬祭慣例と葬祭に関する取り決め
―――――――――――――――――――――――――――――
第1の葬儀当日6日の荒天候については、当時のウィーン気象
台の記録により、昨日述べたように荒天候ではなく、穏やかな日
であったことが証明されています。
これを受けて、葬儀の日は12月6日ではなく7日ではないか
とする説が浮上しています。なぜなら、7日の天候こそ荒天候で
あったからです。しかし、聖シュテファン教会の死者台帳に6日
と明記されている以上、何ら説得性を持たない説といえます。
言い訳の第2の根拠とされているウィーンの葬祭法――死者の
葬祭に関して宮廷から勅令のかたちで公布された細かな取り決め
――これについては、もう少し詳しく述べる必要があります。
葬祭に関する細かな取り決めをしたのは、ヨーゼフ2世のとき
なのです。ヨーゼフ2世はいわゆる啓蒙主義精神に基づく改革派
の君主であり、その改革は埋葬の儀式にまで及んだため、多くの
住民の反発を買ったのです。
啓蒙思想というのは、自然科学的な方法を重視し、従来は神学
的に解釈されていた事柄についても合理的な説明を行おうとした
のです。したがって、死者の埋葬に関しても宗教的な観点よりも
きわめて現実的な衛生管理的な取り決めが公布されたのです。
例えば、1784年に出された埋葬規定の根拠付けのくだりに
は次のようにあります。このとき、ヨーゼフ2世は教会の埋葬を
違法としたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
埋葬の目的は、なによりも、腐敗をできる限りすみやかに進め
ることにある。そこでそれを妨げぬように、埋葬のさいには衣
服を剥いだ裸の遺体を麻袋に入れて縫い合わせ、棺に納めてそ
のまま墓地へ運んでいくこと。・・・運ばれた遺体は、時を移
さず、棺から取り出し、縫い合わされた麻袋に入れたまま墓穴
の中に置き、生石灰を投入した上、土で穴を封じること。
――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
映画『アマデウス』では、モーツァルトはこれとまったく同じ
埋葬をされています。映画では特殊な柩が使われていたのですが
これについてフランシス・カーは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
この種の埋葬を行うとき、司祭は底に特別な仕掛けが施されて
いる柩を使った。柩が墓穴に下ろされると底は綱を少々引っ張
ることで開き、遺体が穴に落ちると柩は再び引き上げられた。
――フランシス・カー著
横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
要するに、棺の片方の壁は開くようになっているので、棺を墓
穴のところに担いで行って傾けると、棺の中に入っている遺体が
穴に落ちるのです。
しかし、宗教的なことにかかわる問題であるため、この埋葬規
定についての反論は大きく、暴動が発生して流血の惨事まで引き
起こしたため、同規定は1785年1月31日に事実上撤回され
ているのです。
これによって、モーツァルトの埋葬のされ方が、当時の葬祭法
によってやむを得なかったとする伝記作家たちの言い訳は、その
根拠とされる葬祭法がモーツァルトの死の6年も前に廃止されて
いることによって根拠を失うのです。
それでは、モーツァルトはどうしてあのような埋葬のされ方を
したのでしょうか。
それは、モーツァルトの死に関して何らかの陰謀があったとい
うしかないのです。モーツァルトの伝記作家のひとりであるカー
ル・ベーアは、これに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
(モーツァルトの)死と埋葬について別な考え方をもつ後世の
人間にとって、モーツァルトが若くして死んだことは不幸とい
うほかはない。もしモーツァルトがもう10年生きていたら、
彼は国葬を与えられ、彼以前のグルックや、彼のあとのハイド
ンと同じく独立した墓を確保できるほどの名声を得ていたこと
だろう。しかしモーツァルトは、あの種の墓崇拝とは相反する
時代に世を去っただけでなく、彼の偉大さが充分世間に認めら
れなかった。 ――カール・ベーア著
『モーツァルト、病気、死、埋葬』より
―――――――――――――――――――――――――――――
このカール・ベーアの考え方は、その当時モーツァルトは名声
を勝ち得ていなかったことを前提としていますが、これは非常に
おかしいことであるといえます。モーツァルトの名声はグルック
やハイドンなどよりはるか上を行くものであったことは明らかで
あるからです。 ・・・・ [モーツァルト55]
≪画像および関連情報≫
・啓蒙絶対君主制とは何か
―――――――――――――――――――――――――――
啓蒙絶対君主とは、主に18世紀後半、プロセイン、オース
トリア、ロシアにおいて、啓蒙思想を掲げて「上からの近代
化」を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあ
てはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して啓蒙絶対君
主と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられてい
ない。代表的人物としては、18世紀後半のプロセインにお
けるフリードリッヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(そ
の母である女性マリア・テレジアを含む)ロシアのエカチェ
リーナ2世などがその典型とされる。また一般的には知られ
ていないが、スウェーデンのグスタフ3世も啓蒙君主として
説明されることがある。 ――ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
