2006年12月06日

モーツァルトの葬儀の日は穏やかな日(EJ1976号)

 夫の死の直後から葬儀を放り出して姿を消し、以後17年間に
わたって、墓参りをしない妻のコンスタンツェ――どのように考
えても人の道に欠ける行いといえます。どうしてコンスタンツェ
はこういう行動をとったのでしょうか。
 推理小説めいた話になりますが、仮にコンスタンツェが夫を毒
殺したとすると、コンスタンツェのとった行動は理解できるので
す。だからこそ、200年以上も経ってモーツァルトの毒殺説が
消えないのです。
 一般論として、妻が夫を毒殺したとしたとき、その当事者であ
る妻はどういう行動をとるでしょうか。理想論としては次の3つ
であると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.遺体はできる限り人目に触れさせず、素早く埋葬する
 2.遺体は後で掘り返されないよう共同墓地に埋葬させる
 3.首謀者であり喪主である妻はなるべく表面には出ない
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上の3つは、コンスタンツェの取った行動そのものであり、
当時のウィーンの葬祭の慣習や宮廷の勅令にも合っていることな
のです。しかし、夫の死後、喪主の役割を放り投げて姿を消して
しまうことは、人の道に反することであり、当時でも許されるこ
とでないことはいうまでもないことです。
 推測ですが、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は事前にコンスタ
ンツェから相談を受け、モーツァルトが金銭的に窮していたこと
を聞かされていたものと思われます。
 そこで、スヴィーテン男爵は最低限の葬儀を素早く行うことに
し、このことをモーツァルトの親戚や友人から非難されることの
ないよう、喪主は気が動転して起き上がれない状態になったとし
て姿を隠すことを承知していたものと考えられます。
 ニッセンによると、コンスタンツェは「1人で絶望の淵にたた
ずむことがないように未亡人はシカネーダーの仲間のバウエルン
フェルトのもとに預けられ、後にゴルトハーンの家に移った」よ
うです。これはスヴィーテン男爵の差配です。
 それに当時のウィーンの葬祭に関する慣習と宮廷の勅令がから
んでくるのです。
 モーツァルトの葬儀や埋葬が当時の慣習から考えて、それほど
おかしなものではない証拠として、既出のアントン・ノイマイー
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 遺体の祝福は巨門(リーゼントーア)の左手の十字架礼拝堂で
 行われたものと思われる。その後遺体はカピストラン説教壇の
 横にある「死者のための礼拝堂」として用いられていた十字架
 像礼拝堂に、夜まで「安置」された。というのは遺体の移送は
 夜になってから行うことに決められていたのである。したがっ
 て、家族にとっては、聖堂敷地内での祝福をもって、本来の埋
 葬は済んだことになる。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 アントン・ノイマイヤーのこの記述でわかることは、当時遺族
は墓地での遺体の埋葬までは立ち会わないことが慣例であるよう
に思えることです。実際に勅令では「・・遺体は集落の外に選ば
れた墓地に運ばれて、飾りなしに埋葬される」とあるのです。
 しかし、それなら、すべての人は共同墓地に埋葬されるのかと
いうと、そうではないのです。身分の高い人や国に貢献した人に
ついては個人墓は認められているのです。
 それに、埋葬のさい、遺体に遺族は付き添わないと葬祭法で決
めているのに、モーツァルトの場合は墓地まで行かなかったにせ
よ、どうして葬列が組まれたのでしょうか。
 当時ウィーンの法律については、次のようにいわれているよう
に朝令暮改の典型だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウィーンの法律は、午前11時から昼までしか続かない
―――――――――――――――――――――――――――――
 ましてモーツァルトの葬儀執行人は、貴族であるスヴィーテン
男爵なのです。そういう身分の高い人が葬儀の手続きのさい、葬
列を組みたいと申し出ればそれは簡単に許されたはずです。
 このようにして、喪主はいなかったけれど禁止されている葬列
をあえて組み、ウィーンの厳冬のひどい風雨の中でそれを行おう
としたが、途中のシュトーベントゥールで、引き返さざるを得な
かったというかたちを作りたかったのではないでしょうか。
 ウィーンの冬は寒いのです。しかも風雨の強い日に葬列を組ん
で、馬車について4キロも歩けるでしょうか。葬列者の中には、
コンスタンツェの母のセシリアのように高齢者もいたのです。
 これなら、シュトーベントゥールで引き返したくなる気持は理
解できます。いくら遅く進むよう配慮しても相手は馬車です。そ
の速さについて行けなかったとしても当然です。
 しかし、これには条件があります。葬儀の日が天候が悪い――
風雨が強く嵐のような日であることです。実際にモーツァルトの
葬儀と埋葬の行われた1791年12月6日はそういう日であっ
たと誰でも思っています。映画『アマデウス』でもそういう設定
になっていたはずです。
 しかし、・・です。ウィーン気象台の記録によると、1791
年12月6日は、「霧の出やすい日であったが、晩秋の穏やかな
日」とあるのです。つまり、風雨の激しい日などではなかったの
です。そうなると、基本条件がガラガラと音を立てて崩れてしま
うのです。
 実は12月7日は、南西の強風が吹き、午後遅くに雨が降り出
しており、一般にいわれているモーツァルトの埋葬の日の天候と
一致するのです。そのため、今頃になって葬儀・埋葬の日は7日
の誤りという説が出ていたのです。・・  [モーツァルト54]


≪画像および関連情報≫
 ・個人墓や家族墓は稀に作られたのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最後に問題になるには、モーツァルトの墓が聖マルクス墓地
  のどこにあるのか、ということである。この問題は長い間熱
  心に討議され、その間に若干の確実性をもった答えが出され
  ている。ここでもまた、モーツァルトの時代には、死者の墓
  所をしかるべき記念碑で目立たせるということは、決して家
  族の自由裁量に任されていなかったのだ、ということをあら
  かじめ踏まえておく必要があろう。
  ―アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
  ―――――――――――――――――――――――――――

1976号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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