でしょうか。
正確にはわからない。しかし、確実にいた者といなかった者は
わかるのです。
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≪付き添っていた者≫
・ヴァン・スヴィーテン男爵葬儀執行人
・セシリア(コンスタンツェの母)
≪付き添っていなかった者≫
・コンスタンツェ
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確証はありませんが、この他に付き添っていたと思われるのは
最後までモーツァルトの面倒をみたゾフィー・ハイベルです。こ
れは理解できます。ちなみに、霊柩馬車は人が乗れるものではな
く、馬車には棺だけを乗せてその周りを葬列参加者が付き添って
ゆっくりと墓地に行くのです。
そして、もうひとり――モーツァルトの埋葬について調べてみ
ると、必ず出てくるヨーゼフ・ダイナーなる人物――この人物が
付き添っていたと思われるのです。このヨーゼフ・ダイナー――
EJ第1973号では「モーツァルトの友人の1人」と紹介した
のですが、正確にいうと、ダイナーはモーツァルトがよく通って
いたビア・ホール「金蛇亭」の給仕であり、モーツァルト家と親
しくなって、店に関係なくモーツァルトの使い走りをしていたと
いわれます。
だからこそ、モーツァルトが死ぬとすぐコンスタンツェは女中
をダイナーのところに行かせ、モーツァルトに死装束を着せるの
を手伝ってくれるよう依頼したのです。
ところで、このヨーゼフ・ダイナーがなぜ霊柩馬車に付き添っ
ていたかですが、後になって、彼はモーツァルトの埋葬に関して
手記を出しているからです。これが「ダイナー手記」といわれ、
モーツァルトの埋葬の不可解さを世に知らしめたのです。
「ダイナー手記」では、モーツァルトの葬儀の模様は次のよう
に記述されています。
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・・・モーツァルトの亡くなった夜は、陰鬱な嵐もようであっ
たが、彼の最後の祝福の時にも空が荒れだした。雨と雪が一緒
に降り、それはまるで、偉大な作曲家の葬式にかくもわずかし
か参列しない同時代人たちに対して、天が恨みを表わそうとし
ているかのようであった。ごくわずかな友人と3人の女性が遺
体に付き添った。モーツァルト夫人は参列していなかった。こ
のわずかな友人たちは傘をさして棺の周りに立ち、それから棺
はシュラー大通りを抜けて、聖マルクス墓地へと運ばれていっ
た。嵐はますますひどくなったので、そのわずかな友人たちも
シュトーベントゥールのところで引き返すことに決めた。
――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
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ところで、肝心の妻であるコンスタンツェはなぜ付き添ってい
ないのでしょうか。
コンスタンツェは、ヴァン・スヴィーテン男爵がモーツァルト
家に到着して間もなく家から姿を消しているのです。この喪主の
いない葬儀の執行について、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は何
もいっていないのをみると、コンスタンツェの失踪はあらかじめ
打ち合わせがあった通りということになります。
後になってコンスタンツェは、夫の死に気が動転し、当時原因
不明の病気にかかっていて葬儀に参列できなかったといっている
のですが、それは明らかにウソであるといえます。
それは、コンスタンツェがモーツァルトの死後少なくとも17
年間はマルクス墓地に墓参りにすら行っていないことによっても
明らかです。仮に百歩譲って病気で葬儀に参列できなかったこと
を認めるとしても、病気が治れば墓参りぐらいは行くのが自然で
あると思うのに行っていないからです。明らかにコンスタンツェ
は、行けなかったのではなく、行かなかったのでしょう。
それなら、17年経過してなぜ急に墓参りをしたのかというと
これも自発的ではなかったのです。既出の藤澤修治氏の論文によ
ると、ザクセン公使館参事官であったゲオルク・グリージンガー
がコンスタンツェの家を訪ねてモーツァルトのことを話したとき
コンスタンツェがモーツァルトの墓参りに行っていないことを話
したというのです。1808年のことです。
そのときグリージンガーは、モーツァルトの遺体がどこに埋葬
されているのかが分からなくなっているとことを報じたドイツの
新聞を見せてマルクス墓地に行って墓探しをするべきであるとコ
ンスタンツェを説得したのです。
コンスタンツェは断わりきれなくなって、はじめてマルクス墓
地に行ったのです。そのときコンスタンツェに同行したのは、グ
リージンガーの他に、コンスタンツェの再婚相手のニッセン、息
子のフランツだったのです。結果はもちろんモーツァルトの埋葬
場所を特定できるはずはなかったのですが、モーツァルトの死後
はじめて、コンスタンツェはマルクス墓地に行ったのです。
モーツァルトの死後、モーツァルトの音楽家としての評価が上
がるにつれて、音楽学者、音楽評論家などは次の2つのことの打
ち消しに必死になって取り組むようになります。さすがに大音楽
家のモーツァルトを大事にしない国としてウィーンの市民が批判
されることを恐れたものと思われます。
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1.モーツァルトは何者かに毒殺されている
2.モーツァルトの埋葬は当時の慣習である
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しかし、どのようにいい繕っても、葬儀に喪主が参列しない異
常さは打ち消せなかったのです。・・・ [モーツァルト53]
≪画像および関連情報≫
・あえて不審の死を隠そうとする理由
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もしモーツァルトが毒殺されたとすれば、彼と親しかった友
人たちは、ある人間が彼を殺したがっていた理由を知ってい
た可能性が充分ある。もしその理由にモーツァルトの私生活
に関連した秘密にからんでいたとすれば、彼らはこのことに
ついての問い合わせを避けたいと思うだろうし、彼の死を、
世間の関心から極力遠ざけようとするだろう。
――フランシス・カー著
横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
音楽之友社刊
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・写真/http://www.tdl.to/jurin/Mozart/Constanze.html
