2006年12月04日

なぜ葬列をやめ引き返したのか(EJ1974号)

 モーツァルトの葬儀の費用は、第3等で8フローリン56クロ
イツァーであると述べましたが、これについてフランシス・カー
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴァン・スヴィーテンは聖シュテファン教会での葬儀の手筈を
 整え、埋葬は、主要な共同墓地ではなく、教会から2マイル半
 離れた郊外の聖マルクス墓地に決められた。粗末で目立たない
 墓穴が注文されたが、これに8グールデン56クロイツァーか
 かった。さらに3グールデンが葬儀馬車用にとっておかれた。
               注――グールデン=フローリン
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフランシス・カーの記述において気になる点が2つあるの
です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.埋葬場所が教会から2マイル半離れた郊外の聖マルクス
   墓地であること
 2.8フロ−リン56クロイツァーは、粗末で目立たない墓
   穴の費用である
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはもっと近くに埋葬できたはずなのです。それな
のに教会から約4キロも離れた郊外のマルクス墓地に埋葬されて
いるのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
 それから、8フロ−リン56クロイツァーの葬儀は、粗末で目
立たないけれども墓穴を掘る費用を含んでいるのです。しかし、
映画『アマデウス』で見たようにモーツァルトの遺体は目印をつ
けられないままに放置された共同墓穴に落とされているのです。
これは貧者の葬儀であり、無料の葬儀の扱いなのです。
 葬儀執行人スヴィーテン男爵がモーツァルトの葬儀を第3等と
したのは、当時の葬祭法令によれば当然のことであると唱える学
者がなぜか少なくないのです。
 確かに当時の社会習慣や葬祭法では第1等の葬儀は「貴族」に
限られ、「庶民」は第2等か第3等しか選べなかったというのは
事実です。『モーツァルトの死』という著作のあるカール・ベー
アはその本の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 葬祭法によれば(庶民であるモーツァルト)は、実際には第2
 等を選ぶか第3等を選ぶしかなかったのである。比較にならな
 いくらいはるかに高名であったベートーヴェンですら、36年
 も後で、第1等の葬儀ではなく、第2等が選ばれたものであっ
 た。モーツァルトの評価が高まったのは後世になってからであ
 り、彼は当時人気の落ちぶれた一介の音楽家に過ぎず、ベート
 ーヴェンが第2等だった事実からしても、庶民であるモーツァ
 ルトは第3等の葬儀だったとしても何の不思議もない。
      ――カール・ベーア著、『モーツァルトの死』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これには異論があるのです。モーツァルトに詳しい藤
澤修治氏の論文によれば、グルックは一曲もドイツ・オペラを作
曲したことがないにもかかわらず、ウィーン宮廷は彼を国葬で送
り出し、庶民だったが第1等の葬儀を受けて個人墓に葬られてい
るのです。さらに、ヨーゼフ・ハイドンも庶民ではあったが、葬
儀は第1等であり、はやり個人墓に葬られています。
 それにモーツァルトは、カール・ベーアのいうように、「当時
人気の落ちぶれた一介の音楽家」などではないのです。死の2ヶ
月前に作曲され、10月だけで24回も連続上演された歌劇『魔
笛』ひとつ見ても、稀有の音楽家であるという評価は定着してい
たのです。
 それに最も重要なことは、モーツァルトは第3等の葬儀となっ
て金が支払われていたにもかかわらず、実際には第3等以下の扱
い――目印のない共同墓地に投げ捨てられているのです。これは
一体どうしたことなのでしょうか。
 映画『アマデウス』で目にしたモーツァルトのあまりにも寂し
い埋葬のされ方をもしモーツァルトの遺族や友人が見ていたら、
黙っていないはずです。ところが、巧妙に計算されたある策略に
よって、モーツァルトの埋葬には遺族や友人は誰も立ち会っては
いないのです。映画でもそうなっていたはずです。
 これに関しても当時のウィーンの慣習を持ち出して、正当性を
主張する学者が多いのです。つまり、会葬者は墓地まで葬列を組
んで行くことはなかったというのです。
 これは明らかにウソであると思われます。もし、そうなら、共
同墓地に葬られる場合、遺族は遺体がどこに埋葬されたかわから
なくなってしまうからです。したがって、最低限遺族は埋葬に立
ち会うことが許されていたと考えられるからです。
 モーツァルトの場合、霊柩馬車を用意して、葬儀執行人のスヴ
ィーテン男爵とコンスタンツェを除く数人の遺族と友人がマルク
ス墓地に向かっているのです。しかし、なぜか、霊柩馬車に付き
添って全員がマルクス墓地に向かう途中のシュトーベントゥール
というところで引き返しているのです。
 それでは、霊柩馬車はどうなったのか――霊柩馬車はモーツァ
ルトの遺体を乗せて付き添いなしにマルクス墓地に向かったので
す。なぜ、引き返したのか――それは当日の6日の天候のせいに
されているのです。
 葬儀当日の12月6日、天候は荒れており、風雨が強く気温は
大きく下がっていたのです。馬車にはコンスタンツェの母のセシ
リアが付き添っていたのですが、途中寒さに耐えかねて自分だけ
帰えらせてくれとスヴィーテン男爵に申し出て降りたのです。し
かし、老婆一人だけを風雨のなか帰すわけに行かず、結局全員が
引き返したのです。      ・・・  [モーツァルト52]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの埋葬について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの埋葬に多額の金をかける労を取った人間はだ
  れひとりいなかった。雨が激しかったため、遺体に付き添っ
  ていた少数の友人たちも急いで家に帰って行った。柩は貧民
  用の墓穴にあわただしく下ろされ、土をかけられた。数週間
  後に、柩は他の貧者の柩に混ざって、なにひとつ痕跡をとど
  めなくなった。その結果、死体は全く発見されなかった。
            ――サッチヴェレル・シットウェル著
                  『モーツァルト伝』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

1974号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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