年は6日から配信します。本年のご愛読を心より感謝し、とくに
1000号記念パーティーにご出席いただいた各位、お祝い金や
花束を贈呈いただいた各位、祝辞のメールを寄せていただいた各
位には、改めて厚く御礼申し上げます。お祝い金では、より鮮明
な写真をEJに添付できるよう、エプソンの高性能スキャナを購
入させていただきましたことをご報告申し上げます。
なお、12月27日現在におけるEJの配信数(直接配信分)
は503人となっており、2002年中に145人増加しており
ます。当面の目標は、1500回(2004年末)です。
2002年4月20日――この日はオザワがボストン響を音楽
監督として指揮する最後の日になりました。昼夜で2回のコンサ
ートが行われ、マチネはベルリオーズの「幻想」であり、これは
オザワがボストン市民に感謝をこめた無料コンサートでした。
夜はマーラーの「交響曲第9番」でした。午後8時過ぎにコン
サートは始まったのです。異例の3000人の聴衆総立ちで迎え
られたオザワは、客席への挨拶もそこそこにマーラーの世界に没
入します。オザワとボストン響の29年間の総決算のような、す
ばらしい演奏だったと翌日の新聞が伝えています。
そして、最後のタクトが振り下ろされるや、嵐のようなスタン
ディング・オペレーションがホールを揺るがしたのです。オザワ
は楽員の一人ひとりと握手すると、ティンパニスト奏者のヴィッ
ク・ファースの手をとって舞台最前列に連れてきて、一緒に拍手
に応えたのです。
ヴィック・ファースは、シャルル・ミンシュ時代から半世紀に
わたってティンパニストを務め、引退をマエストロ・オザワが辞
める日まで伸ばしてきて、この日に引退することを決めたという
のです。当日のプログラムにファースは次のような一文を寄せて
います。オザワがいかに敬愛されていたかを示す証でもあります
ので、ご紹介することにします。
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セイジさんと働くのは喜びであった。彼の並外れた指揮のテク
ニックは、最も難しい音楽でさえも容易に理解しやすくした。
彼の温かさと大きな音楽的才能を決して忘れないだろう。私は
彼の音楽作りの技術に対する献身と熱愛に敬意を表する
――ヴィック・ファース
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翌日の新聞は、オザワへの賛辞と惜別で埋めつくされといって
よいと思います。ボストン市には、ボストン・グローブ紙とボス
トン・ヘラルド紙という2大新聞がありますが、両紙ともにトッ
プに大きなカラー写真で次のような見出しをつけたのです。
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≪ボストン・グローブ紙≫
「ブラボー・セイジ」
「小澤 完璧な音とともに去る」
「さよなら公演は感動的でかつ大胆」
≪ボストン・ヘラルド紙≫
「セイジよ さようなら」
「29年に渡る任期はマエストロの大勝利に終る」
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どうでしょう。これほどの大指揮者であるオザワを日本の音楽
界は今まで何と冷たく扱ってきたことでしょう。確かにN響との
関係は修復されたとはいえ、まだそこに大きなわだかまりが存在
するのです。
こんな話があります。この話は悪の伏魔殿/外務省が登場する
のです。誰もオザワを知らなかったときの話です。
1959年、フランスのブザンソン指揮者コンクールの願書出
願の提出のさい、手続き不備で締め切りを過ぎてしまったときの
ことです。オザワはフランスの日本大使館に泣きついたのですが
相手にされず、アメリカ大使館に駆け込むのです。
アメリカ大使館は、文化担当者であるマダム・ド・カッサがオ
ザワから事情を聞き、指揮者コンクールの事務局と折衝をしてく
れて、コンクール参加が特別に認められたのです。何と親切なこ
とでしょうか。日本の外務省は反省すべきです。
そして、オザワはそのコンクールで優勝を果たすのです。その
ときの審査委員長は、あのシャルル・ミンシュだったのです。そ
の後、オザワの才能を見抜いて大音楽家として育てたのは、日本
ではなく、戦後の米国だったのです。少なくとも、日本はオザワ
に対して、嫉妬と無知のバッシングをしただけで、何もやっては
いないのです。
しかし、オザワはあくまで、日本人であろうとし、子供は日本
にわざわざ戻して育てているのです。そして、彼がつねに次のよ
うにいっているのです。
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自分は日本人である。西欧クラシック音楽の世界における異邦
人である――小澤征爾
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そして、オザワは超多忙にもかかわらず、タングルウッド音楽
祭に似せて、信州・松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル
松本」を育て、今年で11回になります。
桐朋学園に入学する前、オザワは当初ピアニストを目指してい
たのですが、来日していた巨匠、レオニード・クロイツェルの弾
き振りによるベートーヴェンの「皇帝協奏曲」に接して、指揮者
になろうと決意、新設の桐朋学園の指揮科に入学するのです。そ
のときの生徒はオザワただひとり。先生は、性格の激しさと、厳
格な精神的姿勢で有名な斉藤秀雄先生だったのです。
世界のオザワの原点は、この齋藤式の音楽教育にあるといって
も過言ではないのです。オザワ自身もこれを受け継ぎ、サイトウ
・キネン・オーケストラして、後進の指導に当っているのです。
音楽の話はあと2回続きます。よいお年をお迎えください。


