2002年12月26日

ボストン響でのオザワの2つの改革(EJ1016号)

 米国のオーケストラには、実に明確なランク付けがあります。
一般的にいうと、オーケストラのランク付けとは、演奏の良し悪
しとか、CDをどのくらい出しているとか、観客動員数が多いと
か少ないとかを考えますが、そうではなく、予算規模――年間総
予算によるランク付けのことなのです。
 ボストン交響楽団の年間総予算は、7000万ドル(約80億
円)で、世界一です。これは、クリーヴランド管弦楽団やフィラ
デルフィア管弦楽団の倍であり、ニューヨーク・フィルやシカゴ
交響楽団の1倍半に該当します。
 米国では、このボストン交響楽団を中心に、シカゴ交響楽団、
ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴラ
ンド管弦楽団の5つが予算規模と伝統を兼ね備えた「エリート・
ファイブ」といわれているのです。
 オザワが就任した当時のボストン交響楽団の基金は180万ド
ル、それが現在では2億5000万ドルになっています。また、
聴衆は年間160万人に達しており、ボストン交響楽団はオザワ
の時代に、財団の基金、年間予算額、年間聴衆数においていずれ
も世界一を達成しているのです。オザワは音楽監督としてだけで
なく、マネジメントにも優れているといえます。
 ですから、今回オザワが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就
任したことをもって「快挙である」として大騒ぎをしていますが
ボストン交響楽団の音楽監督の実績を考えると、その資格は十分
過ぎるほどあるといえるのです。
 それでは、オザワはボストン響で何をしたのでしょうか。
 それは、次の2つに集約されると思います。
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   1.ボストン響のサウンドの再構築
   2.ボストンのマエストロ像の変革
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 オザワが第一に取り組んだのは、ボストン響のサウンドを変革
することでした。オザワが音楽監督に就任した当時のボストン響
は、サウンドがフランス的で、音色は美しいが、重厚さに欠ける
ところがある――オザワはそう感じたのです。それは、ボストン
響がドイツ人とフランス人の音楽監督を交代させてきたことと関
係があります。
 オザワは、13代目の音楽監督ですが、初代から音楽監督を並
べると次のようになります。
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1.ジョージ・ヘンシェル  8.ピェール・モントウ
2.ウイリアム・ゲリッケ  9.セルゲイ・クーセヴィツキー
3.アルトゥール・ニキシュ 10.シャルル・ミンシュ
4.アミール・パウアー   11.エーリッヒ・ラインスドルフ
5.マックス・フィドラー  12.ウイリアム・スタインバーク
6.カール・ムック     13.小沢征爾
7.アンリ・ラボー
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 これを見ると、初代から6代まではドイツ系の音楽監督、7代
〜10代までは、9代のクーセヴィツキー(露)をのぞきフラン
ス系の音楽監督、そして、11代〜12代は短期ながら、ドイツ
系の音楽監督となっています。
 オザワ以前の12人の音楽監督のうち一番ボストン響のサウン
ドに影響を与えた音楽監督は、8代のピェール・モントウと10
代のシャルル・ミンシュです。そのため、重厚さはないが美しい
フランス的なサウンドを創り上げていたのです。
 しかし、ボストン響の主要レパートリーは、ドイツ・オースト
リア系のものが多いのです。そこでオザワは、フランス的な特色
を残しながらも、もっとパワーや音の深さが必要であると感じた
のです。とくに弦楽器は、もっと暗くて重い音が出せるように改
造しなければならないと考えたのです。
 最初のうちは楽員の抵抗は相当強かったようですが、オザワは
粘り強く説得を続けると同時に、ベートーヴェン、ブラームス、
マーラーといったドイツ的デパートリーを何回も取り上げたり、
クルト・マズアなどのドイツのベテラン指揮者を客演指揮者とし
て招き、練習と演奏を通じて自然にドイツ・サウンドや表現力を
出せるようにしたのです。
 そして、現在のボストン響は、フランス的特色を残しながらも
深く重厚なドイツ・サウンドも出せるオーケストラに変身してい
るのです。これはマエストロ・オザワの功績といえます。
 もうひとつのオザワのやった改革、「ボストンのマエストロ像
の変革」とは、何でしょうか。
 それはオザワが「アウトリーチ」に力を入れたことです。アウ
トリーチとは、音楽家がホールの外に出向いて、直接音楽で働き
かけることをいうのです。
 よく知られるように、ボストン響はタングルウッド音楽祭を主
宰しています。1937年のことですが、ボストン市民である2
人の女性が、緑豊かな210エーカーの土地「タングルウッド」
をボストン響に寄贈したのです。ときの音楽監督は、セルゲイ・
クーセヴィツキーでした。彼はそこに仮設のテントを張って、ベ
ートーヴェン・プログラムのコンサートを開いたのですが、これ
が、タングルウッド音楽祭のはじまりです。
 オザワは、このタングルウッド音楽祭に力を入れ、そこにタン
グルウッド・ミュージックセンターを作って、世界中からやって
くる若い音楽家たちにオザワをはじめ、ボストン響のメンバーが
手に手をとって教える――そのような教育面にとても力を入れた
のです。そしてオザワは、同じ試みを松本でもやっています。
 そして、もうひとつオザワはシェーンベルクやベルクを暗譜で
振る一方で、ボストン・ポップスを指揮し、ピープルズ・コンダ
クターとして慕われたのです。ボストン響の歴代音楽監督が誰も
やらないことをやったわけです。その結果、オザワが街を歩くと
誰もが気軽に声をかける、そんなマエストロになったのです。

1016号.jpg
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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