ルト家に入り込み、あろうことか妻のコンスタンツェと不倫を重
ね子供までつくってしまう――それをモーツァルトは知っていて
すべてを許す――普通こういうことは考えられないことですが、
『皇帝ティトゥスの慈悲』と重ねあわすと、なんとなく理解でき
るような気がするのです。モーツァルトは、自分が皇帝ティトゥ
スになったつもりで、寛容と慈悲の精神をもってコンスタンツェ
やジュスマイヤーを許したのでしょうか。
いずれにせよはっきりしていることは、子供が生まれた時点で
ジュスマイヤーとコンスタンツェの仲は既に破綻していたという
事実です。それは、ジュスマイヤーがモーツァルトの死後、速や
かにモーツァルト家から姿を消しているからです。
夫を亡きものにして一緒に暮らすのではなく、目的が達せられ
たので姿を消すというのであれば、ジュスマイヤーのスパイ説は
真実味を帯びてきます。ジュスマイヤーは、モーツァルト家から
姿を消して、サリエリの弟子になっているからです。
ジュスマイヤーがコンスタンツェの前から姿を消したのであれ
ば、それなら彼はぜ未完の『レクイエム』の補作を行なったので
しょうか。これには少し複雑ないきさつがあるのです。
モーツァルトの死後、『レクイエム』の依頼主のヴァルゼック
伯爵からコンスタンツェのところに使者が来て、『レクイエム』
の総譜を渡せといってきます。
既にジュスマイヤーは姿を消していて、補作をやってもらう人
がいない。もし未完のままスコアを渡すと、残金がもらえないの
で、コンスタンツェはなんとか完成させようとします。そこで、
モーツァルトの友人のヨーゼフ・アイブラーに『レクイエム』の
補作を依頼するのです。
アイブラーはいったんは引き受けておきながら、何ひとつ作業
を行なわないまま、補作を投げ出してしまったのです。なぜ、投
げ出したかは今もってわかっていないのです。
ヴァルゼック伯爵からの催促は激しさを増すばかりで困り果て
たコンスタンツェは死にもの狂いでジュスマイヤーを探し、彼が
サリエリの弟子になっていることを突き止めたのです。
コンスタンツェは人を介してジュスマイヤーに補作を依頼した
のです。ジュスマイヤーはモーツァルトとの約束でもあったので
補作を引き受け、完成させます。そして、モーツァルトの没後、
2年が経過した1793年になって、『レクイエム』は、ヴァル
ゼック伯爵に手渡されたのです。そしてその『レクイエム』は、
1793年12月にヴァルゼック伯爵の作品として、邸内の礼拝
堂において演奏されたのです。
しかし後になってコンスタンツェが『レクイエム』のコピーを
楽譜出版会社のブライトコップフ・ウント・ヘンテル社に売りつ
けたので、『レクイエム』はモーツァルトの作品として正式に認
定されたのです。
しかし、ジュスマイヤーも黙ってはいませんでした。1800
年2月8日になって、ジュスマイヤーはブライトコップフ・ウン
ト・ヘンテル社に対して『レクイエム』の後半のほとんどは自分
の補作であることを通告したのです。ジュスマイヤーの心境とし
ては、こうすることによってのみ自分の名前が後世に残る――そ
のように考えたのです。
それは、ジュスマイヤーの考えた通りとなり、モーツァルトの
『レクイエム』の補作者としてフランツ・クサーヴァー・ジュス
マイヤーの名前は今日に残っているのです。そして、ジュスマイ
ヤーはそれから3年後に37歳の若さでこの世を去っています。
ジュスマイヤー版の『レクイエム』は、その後何回かにわたっ
て修正が行なわれていますが、やはり作曲者のモーツァルト自身
から直接指示を受けてのジュスマイヤーの補作には、多くの問題
があるとはいえ、一定の価値が認められています。
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1971年、フランク・バイヤーによって、ジュスマイヤーの
補作であるオーケストレーションの改訂が行われた。そのあと
イギリスの音楽学者リチャード・モーンダーにより続唱の涙の
日(ラクリモサ)の第9節以下のジュスマイヤーの補作がカッ
トされ、代わって入祭文の一部を入れ、最後にモーツァルトが
スケッチのまま残したアーメンのフーガをつけ加えるという大
手術が行われた。完全にジュスマイヤーの作と思える、サンク
トゥスとベネディクスも切り落とされてしまった。
――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
読売新聞社刊
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ここまで宮廷貴族の送り込んだスパイとしてのジュスマイヤー
によるモーツァルト毒殺説について述べてきましたが、もう1人
疑わしい人物がいます。
それは他ならぬモーツァルトの妻であるコンスタンツェその人
です。モーツァルトに遅効性の毒を盛るには、モーツァルトの身
近にいる者以外は無理ということになります。そうなると、コン
スタンツェかジュスマイヤーしかいないことになります。
コンスタンツェを疑う理由はいくつもあるのです。それは死亡
から埋葬までの一連のプロセスに多くの疑惑があるからです。フ
ランシス・カーは次のように書いています。
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モーツァルトが死んだ正確な日時は1791年12月5日の午
前1時5分前であることはわかっている。しかしその後は、わ
れわれは闇、疑惑、矛盾の中に投げ込まれてしまう。特にその
中で際立つのはコンスタンツェだが、それは彼女が肝心なとき
にいなかったり、黙して語らずといった不可解な行動による。
――フランシス・カー著
横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
音楽之友社刊
―――――――――――――――・・・ [モーツァルト50]
≪画像および関連情報≫
・モツレクに関するブログより/ゆきのじょうさん
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モーツァルトのレクイエムには、フォーレやヴェルディには
ない問題が生じています。それは本作品が全くと言って良い
ほどの未完成品であるということです。モーツァルトの死後
レクイエムは弟子たちによって完成版がつくられることにな
ります。最終的にまとめたのがフランツ・クサヴァ・ジュス
マイヤー(1766〜1803)です。特に「ラクリモーザ」
より後はモーツァルトの自筆譜すら残っていないため、様々
な仮説、憶測が流れることになります。それらの主張を乱暴
に一言で言ってしまえば「モーツァルトが書きたかったレク
イエムはこういうものではない」ということだと思います。
http://www.kapelle.jp/classic/your_best/mozart_requiem.html
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