な謎となって残っています。それは、死亡年齢が35歳という当
時でも信じられないほどの若死にだったからです。
もちろん公式には「病死」ということになっています。妻のコ
ンスタンツェの第2の夫のニッセンは、モーツァルトの最後の病
を次のように書いています。
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彼が病床に伏した死病は、15日間続いた。それは両手足に腫
張をきたし、ほとんど動かせなくなることから始まった。その
後、突然の嘔吐が続いたこの病気は急性粟粒疹熱と言われた。
死の2時間前まで、彼は意識があった。
――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
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「急性粟粒疹熱」というのは病名ではないのです。当時ウィー
ンでは、ウィルス性感冒が流行していて、この流行感冒にかかる
と、発熱時に激しい発汗があり、小水泡様の部分的に化膿した皮
膚発疹がしばしば生ずるので、それを「急性粟粒疹熱」といった
のです。したがって、これは病名ではなく、病気の結果生ずる症
状なのです。それなら、病名は何でしょうか。
モーツァルトの臨終の場にいたのは、医師のクロセット、妻の
コンスタンツェ、コンスタンツェの妹のゾフィーの3人であった
といわれます。
したがって、ニッセンが『モーツァルト伝』を記述するとき、
モーツァルトの臨終の模様の詳細を妻から聞いて書いていると誰
でも考えますが、実はニッセンは妹のゾフィーから聞いているの
です。なぜなら、ニッセンがコンスタンツェに何度聞いても、彼
女はなぜか口を閉ざして何も話さなかったからです。
それでは、クロセットという医師が診断しているのに、なぜ正
式な病名を書いていないのでしょうか。死亡診断書と聖シュテフ
ァン教会事務局の死者台帳には「急性粟粒疹熱」と書かれている
だけなのです。
ところで、モーツァルトが死亡したのは、1791年12月5
日午前0時55分です。その前にモーツァルトが人前に出たのは
11月18日、フリーメーソンの会合だったのです。そのときは
とくに外見上モーツァルトに何の異常もみられなかったのです。
しかし、それから2日後の11月20日にモーツァルトは流行性
感冒を患って床につき、その2週間後に亡くなったということに
なっています。
12月5日に亡くなっているにもかかわらず、ウィーンの市民
がモーツァルトの死を知ったのは、12月7日になってからなの
です。同日付の「ウィーン新聞」は次のように伝えています。
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今月4日から5日にかけての晩、当地において、皇王室付き宮
廷作曲家ヴォルフガング・モーツァルト氏が死去した。彼はま
れに見る音楽的才能によって、すでに幼少よりヨーロッパ全土
にその名を知られており、卓越した天賦の才能を首尾よく発展
させ、それを一貫して使い続けることによって、最も偉大な巨
匠への階段を昇り詰めた。そのことは広く愛され、賛美された
彼の作品が証明している。これらの作品は、彼の死によって高
貴なる音楽がこうむった取り返しのつかない損失の大きさを示
している。――1791年12月7日付「ウィーン新聞」より
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1791年といえば、3大交響曲、歌劇『魔笛』などの成功に
よって、モーツァルトはウィーンの話題の中心だったはずです。
そのモーツァルトの死が、2日も遅れて報道されること自体がお
かしいといえます。
まして、モーツァルトの葬儀はその前日の6日に終っていて、
市民は誰ひとりとして葬儀には参加できなかったのです。いや、
ウィーン市民どころか、後で述べる理由によって、妻のコンスタ
ンツェをはじめ、モーツァルトの近親者も霊柩馬車に乗って途中
まで行ったものの、途中で降りてしまい、誰も墓地まで行ってい
ないのです。これは明らかに異常なことです。
そうこうしているうちに、1791年12月12日付のベルリ
ンの「音楽週報」に次のような記事が載ったのです。
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モーツァルトが亡くなった。彼はプラハから病気のまま帰国し
それ以来ずっと患っていた。彼は浮腫とみなされており、先週
末、ウィーンで死去した。死後体がふくれたので、毒殺された
のではないかと考えられている。
――1791年12月12日付「音楽週報」より
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これが毒殺説が広まった発端なのです。もちろん「音楽週報」
の通信員は確たる根拠を持ってこれを書いたのではないのです。
ただ、死体の状況がどこからともなく伝わってきて、それを毒殺
に結びつけたに過ぎないのです。
それに18世紀の社会的風潮として、有名な人物が突然死した
りすると、それを不自然な死因と結びつけてしまう傾向があった
のです。そのため、この記事を発端として、毒殺説は拡大して後
世に伝えられることになったのです。
病死説と毒殺説――真相はどちらなのでしょうか。
この結論は現代においてもまだ出ていないのです。そこでEJ
では、いろいろな情報を基にして、この後その謎に迫っていきた
いと考えています。次のような詩の一節があります。タイトルは
「モーツァルトの死に寄せて」です。
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人類と音楽の名誉にかけて望みたい。このオルフェウスが自然
死を遂げたのであることを!――ヨハン・イーザック・フォン
・ゲルニング
――――――――――――――――・・ [モーツァルト42]
≪画像および関連情報≫
・映画『アマデウス』の原作
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ロシアの文学者プーシキンはこの説を題材に戯曲「モーツァ
ルトとサリエーリ」を書き、この戯曲が成功したために(映
画『アマデウス』もこの作品に基づいています)「モーツァ
ルト毒殺説」は非常にポピュラーなものとなりました。その
ため、この毒殺(犯人はサリエーリ)を真実であるかのよう
に受けとめている人もいるようですが、これはあくまでも、
フィクションで、信憑性も低いとされています。しかし、モ
ーツァルト最後の作品が「レクイエム(鎮魂曲)」で、実際
にこの曲がモーツァルトの追悼ミサに使われたというのは非
常に因縁めいた話ではあります。「神に愛された」作曲家は
自分の死も音楽で飾る宿命にあったということでしょうか。
http://www.ocn.ne.jp/music/mozart/intro.html
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