2006年11月14日

酷評のヴィック『魔笛』新演出(EJ1961号)

 グラハム・ヴィックの演出では、夜の女王はどこから現われる
のでしょうか。
 3人の侍女は壁から、パパゲーノは洋服ダンスから現われたの
ですが、夜の女王はベットの下から登場したのです。それも、ネ
グリジェ姿で現われたのです。そして、タミーノにすがるように
威圧するように「娘を助けてくれ!」と懇願したのです。客席か
らはクスクス笑う声が聞こえたといいます。
 『魔笛』というオペラは、演出する立場から考えてみると、要
素として次の4つがあることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.メルヒェン的要素    3.ユートピア的教義
  2.民衆・大衆劇要素    4.偉大なる愛の物語
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの要素のどれに重点を置き、それらをどのように組み合
わせてオペラを演出するかということになります。そのさい、欠
かせないのが、ザラストロの国をどのように描くかなのです。
 ハリー・クプファーという旧東ドイツ出身の演出家がいます。
彼の演出としては、ワーグーナーの楽劇『指輪』の演出が有名で
すが、非常に多くのオペラを演出しているのです。
 そのクプファーの新演出による『魔笛』では、ザラストロの国
を旧東ドイツの政治体制を持つ官僚社会として演出しています。
その時点で東ドイツはまだ崩壊していないのです。これについて
河原俊雄氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリンのコーミッシェ・オーバーでの70年代80年代のク
 プファーの演出では、ザラストロの世界を旧東ドイツの政治体
 制を戯画化した官僚社会と規定し、タミーノはその社会に洗脳
 されて最後にはそこに所属することになる。パミーナはそのタ
 ミーノの姿を見て戸惑い、最後には踏みとどまり、一緒にはそ
 の社会に入らない。クプファーの演出では、ザラストロの世界
 は明らかに理想的な世界ではなく、非人間的な世界である。
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 90年代になって東ドイツが崩壊すると、クプファーはザラス
トロの世界を共産主義が支配する官僚社会からコンピュータの支
配する管理社会に変えているのです。
 それまでの『魔笛』におけるタミーノという役柄は、神の国に
入る「選ばれし者」として神格化する傾向があったのですが、ク
プファーは、タミーノをして自らの位階を上昇させる出世欲にし
か関心がなく、自らの社会のありようには無批判な人物としてと
らえています。
 タミーノを神格化しないという点ではヴィックも同様ですが、
彼は決してタミーノを、クプファーのように否定していないので
す。ヴィックはタミーノをまだ世間のことを知らない、どこにで
もいるハイティーンとしてとらえているのです。
 ヴィックは、ザラストロの世界を来るべき高齢社会として演出
しているのですが、ザラストロはタミーノを「選ばれし者」とし
てパミーナと一緒に自分の世界に引き入れようとします。ザラス
トロはやがて「選ばれし者」――すなわち、救世主が現われて、
この衰退しきった社会を救ってくれると考えているのです。
 この点については、夜の女王も同じなのです。彼女もタミーノ
を「選ばれし者」としてとらえており、ザラストロとの間で自分
の娘であるパミーナをからめて、タミーノの争奪戦の様相を演じ
ているのです。
 「選ばれし者」――救世主といえば、映画『マトリックス』を
連想します。機械化軍団に追い詰められてどうにもならなくなっ
たザイオンにおける人間社会――彼らはひたすら救世主を求め、
その役割をネオが演ずる――あの映画『マトリックス』に大変似
ていると思います。事実、ヴィックの演出の評価にはその点を指
摘した評論家はたくさんいるのです。
 はっきりいって、このヴィック演出の『魔笛』の評判はさんざ
んのものです。2005年8月4日付、ツァイト紙に掲載された
評論家C・シュパーンの批評は、ヴィックの新演出の『魔笛』を
「ファンタジー・ショウ」であると断じ、皮肉たっぷりに次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 舞台の上では金切り声の寄せ集めがひっきりなしに動き回り、
 舞台の下のオーケストラ・ボックスでは本物の輝きが瞬く。
           ――C・シュパーン/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、C・シュパーンは、リッカルド・ムーティの指揮によ
るウィーン・フィルの演奏はいうことはないほど素晴らしいが、
ヴィックの演出とはまるで合っていないということをいいたかっ
たものと思われます。
 フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイテュング紙上で、J・
シュピノーラは、ヴィック演出を次のように批評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時代に沿った魔法の等価物を彼は求めた。その魔法について彼
 はほとんどわかっていないように思える。その結果、気の抜け
 た代用品以上のものは見つけられなかった。ヴィックの演出は
 『マトリックス』や『ハリー・ポッター』のファンタジー美学
 を真似したのだが、映画はそれをもっとうまくやれる。
          ――J・シュピノーラ/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 J・シュピノーラはかねてから『魔笛』の演出は、何らかの明
確な主張を持っている者がやるべきであるといってきた人ですが
ヴィックのこの演出には不満であったと思われます。
 このように『魔笛』には、さまざまな解釈とそれに基づく演出
が考えられるのです。・・・・・・・・  [モーツァルト39]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィック新演出のその他の批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いずれの論調も厳しい。酷評といってもいい。しかしこれら
  の新聞評に共通するのは、映画『マトリックス』のイメージ
  を借用したという点に対する批評である。しかし、映画『マ
  トリックス』と『魔笛』を重ねるということがヴィックの演
  出の眼目ではない。これはあくまでも枠組みの設定なのだ。
  その枠組みの中で彼が表現したいくつかの重要なメッセージ
  についてはいずれの批評もまったく言及していない。
                   ――河原氏の前掲論文
  ―――――――――――――――――――――――――――

1961号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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