2006年11月13日

「ザラストロの国をどう描くか」(EJ第1960号)

 グラハム・ヴィッツの『魔笛』の新演出について、論評を続け
ることにします。『魔笛』を演出するさい、一番問題となるのは
ザラストロの王国をどのように描くかです。
 『魔笛』におけるザラストロの王国は、そこはフリーメーソン
の世界であり、理想の国――神々の国という描き方をするのが一
般的です。そうでないと、その国の一員になるのを目指して厳し
い試練を受けることとの整合性がとれなくなるからです。
 しかし、『魔笛』の台本で設定されているザラストロの王国は
必ずしも理想の国とはいえないようです。ヴィックと一緒にドラ
マトゥルギー(作劇)を担当しているデレック・ヴェーバーは、
ザラストロの王国について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノはザラストロの世界に入り込む。そこでは1人の誘拐
 された娘が選ばれた者をおびき寄せるためのおとりとして監視
 されている。その社会は上辺はきれいだが、その下には汚い暗
 黒の世界があり、その世界なくしてはこの社会は存続すること
 はできず、その社会には奴隷集団を引き連れたモノスタトスの
 ような人物が棲んでいる。    ――デレック・ヴェーバー
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 あえていうまでもないことながら、上記の文中にある「誘拐さ
れた娘」とはパミーナのことであり、「選ばれた者」はタミーノ
を意味しています。確かに奴隷制度に支えられているザラストロ
の王国には大きな矛盾があります。このザラストロの王国の持つ
矛盾について次のような表現があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ザラストロは、アメリカ合衆国の北部では人権を唱えながらも
 同時に南部では216人の奴隷を所有し、そこに何ら非道徳性
 を感じなかったジョージ・ワシントンに等しい。
               ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、ヴィックはザラストロの国をどのように表現したの
でしょうか。
 第2幕が始まると、観客はあっと驚きます。それは、ザラスト
ロの国の住民が全員老人――それもかなり高齢の老人ばかりだか
らです。点滴を受けている老人、本を読んでいる老人、居眠りを
している老人、ぼんやり虚空を見つめる老人――まさに老人のオ
ンパレードなのです。
 その中にあって、舞台の中央では鎧を着た2人の若い男が黙々
とシャベルで穴を掘っているのです。彼らは、ザラストロの高齢
社会を支えている労働者なのです。彼らがいないとこの社会は成
り立たないのですが、若者の人数が圧倒的に足りないのです。2
人という数がそれを示しています。
 これは、明らかに現代の社会――いやごく近未来の社会そのも
のといってよいと思います。そこには未来に対する夢もなく、迫
り来る死の恐怖を免れるために宗教にしがみつく――そういう宗
教社会をヴィックは『魔笛』の中で、ザラストロの国として描き
出したのです。
 それでは、ザラストロの国の入り口にある3つの門はどのよう
に表現されたのでしょうか。
 ザラストロの3つの門――「自然」「叡知」「理性」のそれぞ
れの門は、いかめしい感じがするのですが、ヴィックは、客席か
ら見て、右側の門の上には「鳥かご」、中央の門の上には「地球
儀」、そして左側の門の上には「積み上げられた書籍」が置くと
いう演出をしています。
 結局、タミーノに扉を開くには、「積み上げられた書籍」が置
いてある左の門だったのです。これは、まだ多くのものが欠けて
いた10代後半のタミーノに対して、熱心に勉学に取り組み、知
識を増やすことをザラストロの国では求めていたことを示してい
るのです。しかし、そのようにしてたどりついた社会が老人ばか
りの高齢社会だったというわけです。
 このヴィック演出の『魔笛』を見た観客をギョッとさせるシー
ンは他にもたくさんあるのです。そのひとつに、第1幕の後半に
タミーノが魔法の笛を吹くと、森の中からたくさんの動物が出て
くるのですが、それらの動物のいくつかを狩猟姿のザラストロや
その配下が射殺するシーンです。これは、ザラストロの国が持っ
ている危険な一面をヴィックは知らせているものと思われます。
 もうひとつは、タミーノとパミーナの火と水の試練――これを
ヴィックは、なんとロシアン・ルーレットに変えてしまっている
のです。タミーノとパミーナは、互いに抱き合いながら、銃を頭
に当てて、引き金を引くのです。1発目は「カチッ」という音が
して空砲、続いて2発目も空砲だったのです。これで試練は終り
です。このヴィックの演出について、河原俊雄氏は次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 試練などといっても、それ自体何の意味もないし価値もない。
 ロシアン・ルーレットと同じ。しかし命がけであることには変
 わりがない。炎の試練や水の試練を2人でくぐり抜けるぐらい
 の心理的な恐怖と危険はある。しかし、この試練自体に何らか
 の特別の意味があるわけではない。その主張は明快だ。神秘的
 なものや高速なものを具体的で現実的なものに読みかえる。こ
 の姿勢は一貫している。   ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この火と水の試練は、最も厳しい、死に直面する試練といいな
がら、オペラでは実に簡単に済んでしまうことに違和感を覚える
観客もいるはずです。ただ、フルートが単純なメロディをかなで
るだけです。おそらく演出上最も難しいシーンであると思うので
す。それをロシアン・ルーレットに変えてしまうとは・・・驚く
べき新演出です。      ・・・・  [モーツァルト38]


≪画像および関連情報≫
 ・ザルツブルグ音楽祭/2006のブログより
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  2006年のザルツブルグ音楽祭で最後に聴いたプログラム
  は、アーノンクール指揮のウィーンフィル、モーツァルトの
  後期三大交響曲でした(2006年8月25日)。交響曲第
  39番。1−4楽章を通じて早めのテンポで統一感があり、
  テンポを変えながら起承転結を作る演奏とは異なる解釈。古
  学奏法は、ピリオド奏法で、どちらかと言うと音が小さくな
  りがちと理解していましたが、古学奏法で耳に優しいながら
  もウィーンフィルは大音響を奏でていて、衝撃的な演奏。特
  筆すべきは第3楽章。曲の印象を左右するティンパニの4音
  大き目で乾いた3音に続き、4音目はばちを反対にクルリと
  回して軽く打つ演奏に固唾を呑んでしまいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/classicstation2006/4745434.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

第1960号.jpg
posted by 平野 浩 at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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