るまでの歴史の振り返りをさらに続けます。
1981年5月、フランスではフランソワ・ミッテラン社会党
候補がジスカールデスタン大統領と争い、勝利を収めたのです。
ちなみに、現フランス大統領のオランド氏も社会党出身です。奇
しくもミッテラン大統領も、オランド氏と同様に経済成長と雇用
の促進を公約にして当選しているのです。
当然公約を実行しようとします。当然のことながら、インフレ
で貿易収支は赤字になり、物価は上昇し、EMS参加国内で物価
上昇率格差が生じたのです。物価が上昇するとEMSでは、物価
上昇率の高い国は中心レートを切り下げ、低い国は切り上げて、
物価上昇率格差を調整することになります。
その結果、マルク切り上げとフラン切り下げが何回も起きたの
です。正確にいうと、1981年10月から1983年3月まで
の1年半の間に西ドイツは3回切り上げ、フランスは3回切り下
げているのです。
1983年3月の3回目の中心レートの調整にさいして、ミッ
テラン大統領は決断の岐路に立たされたのです。EMSから脱却
して公約を実行するか、それともEMSに残留してインフレ抑制
策に転換するかの岐路です。
閣僚のほとんどはEMSからの脱却を支持していたのですが、
ミッテラン大統領はEMSに残留する道を選んだのです。もしこ
のとき、フランスがEMSから脱却していたら、おそらく現在の
ユーロはなかったと考えられます。まさに、歴史的決断であると
いってよいと思います。
それでは、なぜ、ミッテラン大統領はEMSに残留することを
決めたのでしょうか。
それは、世界経済の潮流を読み切った結果なのです。これにつ
いて、中央大学経済学部教授の田中素香氏は、自著で次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
81年に成立したレーガン政権は金融規制を撤廃し、金融自由
化を大胆に進めた。イギリスでも79年に成立したサッチャー
政権が金融の完全自由化政策を打ち出し、戦後イギリスの階級
融和的な社会状況を徹底的に変革し、「金融立国」と自由競争
のイギリスが出現した。「ミッテランの決断」は、おそらくこ
うした世界経済の潮流の転換を視野に入れていたのであろう。
以後フランスはマネーサプライ増加率を抑制して物価安定をは
かる西ドイツ流の物価安定方式を導入して、インフレ率を西ド
イツ並みに引き下げていく。フランス政府は、労働組合、国民
に「EMS残留がEC統合にフランスが主導的役割を果たす唯
一の道」と説得し金融・財政両面で緊縮政策に転じた。失業率
は上昇したが、1984年、フランス国民の「EC統合支持」
は85%と高かった。国民は政府の説得を受け入れ、厳しい試
練に耐えたのである。 ──田中素香著
『ユーロ/危機の中の統一通貨』/岩波新書1282
―――――――――――――――――――――――――――――
1980年代というのはどういう時代だったのでしょうか。
基軸通貨ドルの大変動の時代である──そのようにいうことが
できると思います。
真っ先に金融を自由化した影響で、海外から米国と英国に大量
の資金が流入し、1980年代のはじめから英ポンドとドルの為
替相場が上昇します。当時米国はインフレがかなり進行し、失業
率も高かったのですが、レーガン米大統領は金融政策はFRBの
ボルカー議長にまかせ、軍事費を中心に財政支出を拡大させて景
気を支えたのです。
このときボルカー議長のとった政策が「新金融調節方式」とい
う名前で知られる金融引締政策なのです。新金融調節方式を簡単
にいうと、通貨供給量をコントロールすることでインフレの沈静
化を図る政策です。
しかし、これはかなりの荒療治で、政策金利が20%を超える
という高金利政策により、経済活動の停滞と物価の持続的な上昇
が共存するというスタグフレーションのコントロールには何とか
成功したものの、当時のニューヨーク株式市場は10%以上下落
し、GDPが3%減少、失業率は11%になるという副作用を発
生させたのです。そのため、これは「ボルカーショック」といわ
れているのです。
何しろ世界中の資金が米国に集中し、ドル相場は高めに推移し
たのです。これにより、輸出は減少し、輸入は拡大するという貿
易不均衡がもたらされたのです。
この急速なドル高は、為替バブルを招き、そのバブル崩壊によ
るドル暴落の懸念から、米国は、G5各国(日本、西ドイツ、フ
ランス、イギリス、アメリカ)の協力により、急速にドル安に誘
導するという「G5によるプラザ合意」が成立したのです。その
結果、日本と西ドイツはドルを大幅に切り下げ、対米競争力で優
位に立ったのです。
1980年から1987年の対ドル、対マルクのレートは次の
ようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
ドル マルク
1980年03月 248円 1.85 マルク
1985年03月 259円 3.31 マルク
1987年12月 121円 1.58 マルク
―――――――――――――――――――――――――――――
1987年に円とマルクは急激に切り上がり、その結果、日本
と西欧では通貨高により輸出が落ち込み、不況に陥ったのです。
EMSの環境も厳しさを増したのです。この構造的危機に対処す
るには、マルクをEMSの事実上の基軸通貨にする必要性が高ま
ったのです。 ── [欧州危機と日本/41]
≪画像および関連情報≫
●ボルカーFRBの活躍/「マーケットで遊ぶ」より
―――――――――――――――――――――――――――
79年7月、FRB議長にボルカーNY連銀総裁が指名され
たところから80年代のディスインフレはスタートします。
このボルカーさんはグリーンスパン氏の前のFRB議長で、
87年まで8年間FRB議長の職にあり、『ドルの守護神』
『史上最高のインフレファイター』などと呼ばれた名議長で
した。余談ですが、ボルカーさんの後任にグリーンスパン氏
が決まった直後、ドルと米国債価格が一時的に値下がりする
くらいボルカーさんに対する信任は強く、また、グリーンス
パン氏に対する不安が大きかったものでした。いまのグリー
ンスパン氏の影響力の大きさ、信頼の高さからは考えられな
いことですね。ボルカー議長が就任した当時の米国は、62
年に始まったベトナム戦争による巨額のドルの垂れ流しによ
り経済のインフレ体質が定着し、金利は上昇トレンドを継続
その結果、株式市場では、NYダウが約17年にわたるボッ
クス相場を余儀なくされていました。ビジネスウイーク誌が
『米国の株式の死』を伝えたのも79年でした。このような
中登場したボルカー議長は、公定歩合の引き上げとともに、
新金融調節方式を導入、徹底した通貨供給抑制策でインフレ
の封じ込めに乗り出していきます。その後、価格の高騰から
需要低迷、収入の減少に四苦八苦していたOPECが、83
年3月にはじめての原油価格の引き下げ(1バレル34ドル
→29ドル)に踏み切ったこともあり、さしものインフレも
次第に沈静化、ディスインフレの下で金融緩和、景気拡大、
株高へとつながっていくことになります。
http://business1.plala.or.jp/ycb/ycb/sub3a.htm
―――――――――――――――――――――――――――
ポール・ボルカー氏


