ンショックからです。1971年8月、米ニクソン政権は金とド
ルの交換を停止することで、IMF固定相場制を一方的に放棄し
たのです。いわゆるニクソンショックです。
なぜ、米国はその決断をしたのでしょうか。
それは日本や西ドイツに工業部門で追い上げられ、ドル為替相
場を切り下げて、競争力を回復しようとしたのです。しかし、ド
ルは基軸通貨であったため、世界の為替相場の状況は不安定化し
1973年までには、先進諸国は次々と変動相場制に移行するこ
とになったのです。
しかし、これによって1970年代の世界経済は混乱し、不安
定になったのです。為替相場の浮動性が増し、金利の変動幅が拡
大したので、経済を不安定化させたのです。
こういう状況を受けて、ヨーロッパでも何らかの通貨協力が必
要であるという認識が高まったのです。当時ECを構成していた
6ヶ国──フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセン
ブルグ、西ドイツの平均域内輸出シェア──6ヶ国の輸出総額に
占めるEC域内貿易額は60%を超えていたからです。
そこでECとしては、1973年にEC加盟が決まっていたイ
ギリス、デンマーク、アイルランドを加えた9ヶ国で、1972
年4月に固定為替相場制の「EC為替相場同盟」をスタートさせ
たのです。これは、相互に競争力を考慮して中心レートを決め、
その上下2.25 %の変動限度を設定して為替相場の安定をはか
るというものです。
しかし、イギリスとイタリアは、あくまで自国本位の経済成長
を目指したいとして、両国は早々にEC為替相場同盟を脱退して
しまったのです。
1973年3月にEC諸国は変動相場制に移行するのですが、
EC為替相場同盟では、特殊なスタイルをとったのです。それは
域内では固定相場制、対外のドルに対しては変動相場制という特
殊なスタイルです。これを「共同フロート」というのです。また
別名として、「スネーク」とか「トンネルの中のヘビ」とか呼ば
れていたのです。なぜ「ヘビ」なのでしょうか。
それは、このEC為替相場同盟参加国の為替レートの軌跡を見
ると、変動幅が上下2.25 %に設定されているので、ヘビがく
ねって動いているように見えるのです。そのため、「スネーク」
とか「トンネルの中のヘビ」などと呼ばれたのです。
ニクソンショックではじまった1970年代は混乱の10年と
いわれたのです。2度の石油危機、世界不況、世界インフレが連
続して起こったからです。とにかくドルとマルクの為替相場の変
動は大きかったのです。
フランスはマルクの変動についていけず、1974年1月にス
ネークを離脱しています。翌年に復帰したのですが、1976年
3月に再び離脱しています。
これに対して、この為替相場同盟の決まりに忠実に従うグルー
プがあったのです。それは西ドイツを中心としてベネルクス3国
とデンマークです。ベネルクス(Benelux→BNL) 3国とはベ
ルギー、オランダ、ルクセンブルグです。
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ベルギー ・・・ Belgie/Bergique →B
オランダ ・・・ Nederland →N
ルクセンブルグ ・・・ Luxembourg →L
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これらの国は、西ドイツの影響を受けて、物価安定を重視した
経済政策を取り、EC為替相場同盟というよりも、マルク中心の
為替相場安定圏を形成していたのです。これをマルク圏と呼んで
いるのです。これは西ドイツ中心の私的組織のようになり、EC
とのかかわりは切れてしまったのです、
EC為替相場同盟から離脱したフランス、イギリス、イタリア
のうち、イギリスとイタリアは投機筋に通貨を売り込まれ、19
75年に為替相場は暴落します。やがて外貨準備が尽きて、IM
Fに資金援助を申請し、その条件として緊縮財政政策を強制され
大変な不況になったのです。この煽りはフランスも受けて不況に
なり、西ドイツを中心とするマルク圏も、フランス、イギリス、
イタリアの3大国への輸出が不振となり、1977年には低成長
になったのです。
これによって、やはりECレベルで為替相場同盟を結ぶことの
必要性が高まったのです。当時の西ドイツのシュミット首相は、
フランスのジスカールデスタン大統領に働きかけ、1978年2
月のEC首脳会議で採択されたのが「EMS」──欧州通貨制度
です。EMSは、現在のユーロのベースになる通貨制度であり、
とくにその為替相場メカニズムは理解しておく必要があります。
EMSは一種の固定為替制度であり、その為替相場メカニズム
がERMです。EMS/ERMについては、4月10日のEJ第
3278号に述べているので、参照してください。
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2012年4月10日/EJ第3278号
http://electronic-journal.seesaa.net/article/263511297.html
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EMSは、イギリスをのぞくEC8ヶ国が参加し、1979年
3月からスタートしたのです。EMSはスネークと同じように、
参加国通貨相互に中心レートを決めて、その上下2.25 %に変
動限度を置き、そのなかに収めるというものです。
為替相場が限度の2.25 %に達すると、外国為替市場に介入
して自国通貨を売り外貨買いを行うか、逆に外貨売り、自国通貨
買いを行って限度を超えないように調整するのです。
しかし、初期において最大の問題点は、参加国の物価上昇率の
格差なのです。インフレ国は貿易収支は赤字になり、物価が安定
している国は黒字になるので、外国為替市場での投機の対象にな
りやすかったのです。 ── [欧州危機と日本/40]
≪画像および関連情報≫
●西ドイツ・シュミット首相はどういう政治家か
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1974年5月16日、ブラントが「ギョーム事件」によっ
て辞任した後を受けて、急遽連邦首相に就任した。オイルシ
ョックによる世界的な経済不況の中で、彼は積極的な景気維
持の策をとった。彼は隣国フランスのジスカール・デスタン
大統領と緊密に協力し就任間もなく欧州理事会を設立。19
75年のヘルシンキ条約で全欧安保協力機構(OSCE)の
の創設に貢献した。1976年の総選挙で議会第一党の座を
ドイツキリスト教民主同盟(ODU)に奪われたが、FDP
との連立維持で政権に留まった。テロリスト集団ドイツ赤軍
分派の活動、特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる財
界要人誘拐殺人・ハイジャックなどの一連の事態に対する彼
の対処は、困難を伴いつつも妥協しない断固としたもので、
テロリストによるルフトハンザ航空181便ハイジャック事
件に際しては、テロ対策特別部隊GSG−9を投入して、そ
れを果断に鎮圧した。シュミットの弁舌の才もその政権運営
に大きく寄与した。 ──ウィキペディア
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西ドイツ/シュミット首相


