2006年10月20日

モーツァルトも台本作りに参画している(EJ1945号)

 イグナーツ・フォン・ボルン――おそらく『魔笛』の台本の基
本構成は彼が構築したものと考えられます。フォン・ボルンは、
1742年にトランシルヴァニア――ルーマニア中部/18世紀
はオーストリアの支配下にあった――に生まれています。
 プラハ大学にて哲学、法律学、自然科学を修め、鉱物学の研究
者として名を高めたのです。現在では鉱物学は地味な学問でしか
ありませんが、この時代は錬金術に関心があり、鉱物学は花形の
学問だったのです。既出のギーゼッケも鉱物学者です。
 1776年にフォン・ボルンは女帝マリア・テレジアからウィ
ーンに招かれ、ウィーンで研究をするようになります。そして、
啓蒙主義を支える一人となり、フリーメーソン結社の最高位階ま
で昇進し、ウィーン最大のロッジの事務総長を務めたのです。
 フォン・ボルンは、最も傾聴に値する理論家であり、ウィーン
のフリーメーソンで最も信頼された指導者だったのです。とくに
彼の関心は儀礼の諸問題にあり、それらの儀礼と古代エジプトの
秘儀を結びつける貴重な研究をしているのです。それは1784
年に次の論文として発表されているのですが、『魔笛』の演出は
この論文に基づいているといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
            『フリーメーソン情報』/1784
 ――エジプトの秘儀について/イグナーツ・フォン・ボルン
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがてフォン・ボルンはロッジ「真の調和」を設立し、その代
表幹事になるのですが、そのロッジは、ウィーンで最大のロッジ
に成長します。既に述べたようにモーツァルトは他のロッジ――
恩恵ロッジに入会したものの、そのほとんどは真の調和ロッジに
出席していますし、ヨーゼフ・ハイドンも、1785年に真の調
和ロッジに入会しています。
 なぜなら、真の調和ロッジは、他のロッジよりも音楽会を多く
開催し、フォン・ボルンはフリーメーソンと音楽の関係について
も確固たる考え方を持っていたので、モーツァルトやハイドンは
彼の理論に啓発されることが多かったと考えられるのです。そう
いうフォン・ボルンが『魔笛』に何も関与していないとはとても
考えられないことです。
 『魔笛』には、その重要人物として「ザラストロ」という人物
が登場しますが、このザラストロという人物のモデルが、イグナ
ーツ・フォン・ボルンその人であるという説もあるのです。そう
であるとすると、『魔笛』の台詞の中のザラストロの哲学的問答
が理解できますし、『魔笛』の台本作りにフォン・ボルンが少な
からずかかわっていたことは確かと思われます。
 しかし、フォン・ボルンは、1791年7月に亡くなっている
のです。この時期は『魔笛』の練習中ですが、オペラの骨格構築
にフォン・ボルンにギーゼッケ、そしてモーツァルト自身も参画
して議論が重ねられたと思われるのです。
 フォン・ボルン、ギーゼッケ、モーツァルトの3者による『魔
笛』の台本作り説は、『魔笛』の筋について巷間いわれる次のよ
うな評価に大きな変更を迫るものになるといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (『魔笛』の筋は)荒唐無稽に徹した文学形式のうちでも最も
 馬鹿馬鹿しい見本の一つである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが果たして『魔笛』の台本作りに参加していたか
どうかについては、それを裏付ける証拠はほとんど残っていない
のです。モーツァルトのフリーメーソン活動については、妻のコ
ンスタンツェと彼女の第2の夫ニッセンによって、そのほとんど
が削除されてしまっているからです。
 なぜ、コンスタンツェはフリーメーソン活動に関する手紙を処
分したのかはわかりませんが、モーツァルトの死後、コンスタン
ツェは、皇帝ヨーゼフ2世によって約束されていた終身遺族年金
を宮廷からもらうことに必死になっており、その決定に不利にな
る文書はすべて処分したのではないかと思われるのです。
 なぜなら、モーツァルトが亡くなった時点でのフリーメーソン
活動は皇帝の締めつけによってかなり抑制的なものになっており
コンスタンツェは、亡夫のフリーメーソンにかかわる活動が載っ
ている文書を持っていると不利になると考えたのではないかと思
われます。
 そういう少ない資料の中で、モーツァルトが『魔笛』の台詞に
非常にこだわっていたことを示すエピソードが存在するのです。
 次の文は、モーツァルトが友人のライトゲープ(ホルン奏者)
と『魔笛』の公演を桟敷席で鑑賞したとき、ライトゲープの無神
経な態度に腹を立てている様子が窺われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 初めのうちぼくはがまんして、「いくつかの台詞」に彼の注意
 を引こうとしました。でもだめでした。彼はなにもかも笑いと
 ばしていました。それはあまりにもひどいのです。ぼくは彼を
 パパゲーノ呼ばわりして席を立ってしまいましたが、あの馬鹿
 にそのことがわかったとは思えません。  ――モーツァルト
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで留意すべきは、モーツァルトが管弦楽法の旋法とかにラ
イトゲープの注意を引こうとしたわけではなく、「いくつかの台
詞」に注意を喚起している点です。音楽ではなく台詞なのです。
 また、コンスタンツェが母のセシリアをこのオペラに連れて行
くときにあらかじめ台本を渡し、それをよく読んでから行くよう
に指示している手紙もあり、モーツァルトが相当台詞にこだわっ
ていたことは確かです。そういう意味でモーツァルトが台本作り
に参画していたと思われます。 ・・・・ [モーツァルト23]


≪画像および関連情報≫
 ・トランシルヴァニアについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1713年、オーストリアはトランシルヴァニア総督を置き
  ハンガリーとは政治的に分離した。オーストリア政府は、ル
  ーマニア人の懐柔同化政策をとり、彼らのローマ教皇の権威
  を認めさせるカトリックとの合同教会を作った。皮肉にも合
  同教会の聖職者の中からルーマニア人の民族運動の指導的知
  識人(トランシルヴァニア学派)が現われ、1791年には
  ルーマニア民族の同権を求める皇帝への請願書が提出された
  のである。             ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

1945号.jpg
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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