2006年10月18日

なぜ話の筋は通らないのか(EJ1943号)

 ここに一枚の奇跡的に残っている芝居のチラシがあります。そ
こには次のように書かれています。
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 皇帝室特許ヴィーデン劇場
 本日、1791年9月30日、金曜日
 ヴィーデンの皇帝室特許劇場の俳優および女優諸兄姉は下記の
 名誉ある上演を行なう
 初演 『魔笛』 エマヌエル・シカネーダによる2幕の大歌劇
 配役 ――主要者のみ――
  タミーノ  ・・・ シャック
  祭司第一  ・・・ シカネーダー/兄
  夜の女王  ・・・ ホーファー夫人
  パパゲーノ ・・・ シカネーダー/弟
  奴隷第一  ・・・ ギーゼッケ
 音楽はカペルマイスターで現皇王室宮廷作曲家ヴォルフガング
 ・アマデウス・モーツァルト氏によるもの。モーツァルト氏は
 親愛なる観客に敬意を表して、また台本作家に対する友情から
 本日自身でオーケストラを指揮する。
 オペラの台本には2枚の彫板刷りが付き、シカネーダ氏がパパ
 ゲーノ役の舞台衣装をつけた姿が出ており、切符売り場で30
 クロイツァーで販売される。
 入場料は通常どおり。開演は7時
        ――H・C・ロビンズ・ランドン/海老沢敏訳
    『モーツァルト最後の年1791』より 中央公論新社
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 モーツァルトの歌劇『魔笛』の上演を知らせるチラシです。こ
のチラシの文面を見ると、いろいろなことがわかります。
 出演者について解説します。タミーノ役はベネディクト・シャ
ック――彼はモーツァルトの親友です。この台本を書いたといわ
れるシカネーダーは弟の方でパパゲーノ役をやり、兄は祭司第一
を担当しています。
 夜の女王のホーファー夫人というのは、ウェーバー家の長女で
あり、モーツァルトの妻コンスタンツェの姉です。彼女は次女ア
ロイジアに次いで声楽の素質があったのです。奴隷第一役のギー
ゼッケというのは、本名はヨハン・ゲオルク・メッツラーといい
台本作りに一役買っている重要人物なのです。
 劇場の切符売り場では、台本が売られていたようです。価格は
30クロイツァー――1フローリンが60クロイツァーであり、
1フローリンは日本円で約1万円――つまり、台本一冊5000
円程度で売られていたことになります。
 さて、昨日のEJの『魔笛』のあらすじを読んで、どのように
感じられたでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.第1幕は夜の女王は善者、ザラストロは悪者なのに、第2
   幕では完全に善悪が逆転している。
 2.モノスタトスと配下の奴隷がなぜ夜の女王ではなく、ザラ
   ストロ側にいたのか理解しにくい。
 3.タミーノとパパゲーノが急に試練に挑戦することになるい
   きさつが、今ひとつ理解しにくい。
 4.第1幕は単なるおとぎ話に過ぎないが、第2幕になると、
   内容が突然哲学的問答に終始する。
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 このオペラを観て感ずるのは、やはり第1幕と第2幕に見られ
る善悪の逆転です。娘パミーナをザラストロに奪われたと訴える
夜の女王――この時点で夜の女王は被害者です。そして実際にパ
ミーナは捕われの身になっており、いかにも悪者然としたモノス
タトスとその配下(奴隷)に取り囲まれている――これは第2景
の情景です。
 タミーノはザラストロ――パミーナを捕えた張本人に会おうと
して神殿に押しかけます。そうしたら、そこで突然哲学的な問答
がはじまり、タミーノは観客を置き去りにしたまま、夜の女王の
いっていることは本当ではないと悟ってしまう――そのあたりが
すんなりとは理解できないのです。そして第2幕の試練は一層分
かりにくいものになってしまうのです。
 さらに『魔笛』と題しながら、魔笛の活躍する場はあまりなく
むしろパパゲーノのもらった鈴の方が活躍する印象を受けます。
悪者を追い払ったり、パパゲーナを呼び出すときに効果を発揮す
るのです。
 もちろん、魔笛についても、森の動物を呼び出したり、パミー
ナと一緒に試練を乗り越えるときに使われていますが、観客はタ
ミーノとパミーナが試練を受けることになる理由がいまひとつ分
かりにくいので、魔笛の重要性に気がつかないのです。
 しかし、音楽に関しては比類もなく素晴らしいので、意味がよ
くわからなくても何となく納得してしまう――『魔笛』はそんな
オペラなのです。
 これについて、熱心なフリーメーソンの会員であったとされる
ゲーテは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 観客は舞台を見て楽しめば十分である。その際、その高尚な意
 味が入信者たちに見落とされることはないのだから。
        ――ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、ゲーテは、フリーメーソンの会員にある意味が伝われ
ば十分であり、一般の人は楽しめればいいではないかといってい
るのです。ゲーテはある時期、続編を書こうかと思いたったほど
この作品を高く評価していたのです。
 このようなゲーテのような考え方に加えて、当時の音楽評論家
たちはろくに調べもせず、この台本は2つの別の物語を統合した
ものと断じることによって、長い間満足の行く解釈をすることを
怠ったのです。        ・・・・ [モーツァルト21]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトのウィーン/鈴木秀美/より
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  (ハイドンの)音楽の数々は、私たちの目の前であたかも華
  麗な行列のように繰り広げられ、私たちはそれをうっとりと
  見守っているが、それは必ずしも私たちが個人的にそれに参
  加し、私たちが直接に感情をもって関与するのを求めはしな
  い。他方モーツァルトでは、この関係はまったく異なってい
  る。つまり彼は私たちに彼の感情世界を共有するよう誘い、
  言ってみれば私たちの手を取り、私たちを案内し、最後には
  彼が赴くところ、どこなりと自分についてくることを求めて
  いるのだ。そこから彼の喜びは私たちの喜びであり、彼の悲
  しみは私たちの悲しみとなる。
                  ――ロビンズ・ランドン
   http://www.arttowermito.or.jp/music/mda3suzukij.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1943号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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