2006年10月06日

モーツァルトとフリーメーソン(EJ1936号)

 1787年1月22日のプラハでの、モーツァルト指揮による
『フィガロの結婚』の上演は記録に残るほどの大盛況であったと
モーツァルトの伝記記者の一人であるニーメチェクは、次のよう
に伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このときほど劇場(国立劇場)が満員になったことは、かつて
 一度もなかった。非凡な作品、非凡な演奏が一体となって、劇
 場は恍惚感に惹きこまれた。甘美な魔術ともいうべきか。音楽
 会の最後に、半時間以上も即興演奏を行い、恍惚感を絶頂にも
 たらした時、高い喜びにあふれた喝采となった。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
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 最後の演奏が終っても拍手は鳴りやまなかったのです。そのと
き聴衆の一人が「フィガロから何かを弾いて」と叫んだのです。
モーツァルトはクラヴィアに座り直すと、「もう飛ぶまいぞ」を
弾き、その場でそれを主題とする12曲の演奏曲を即興演奏で弾
いてのけたのです。聴衆の熱狂ぶりが見えるようです。
 プラハの人たちのこれほどの反応にもかかわらず、モーツァル
トの表情には一抹の淋しさがただよっていたといいます。心の底
から満足はしていなかったのです。彼はやはりウィーンにおいて
このよのような歓声と喝采を受けたかったに違いないのです。し
かし、ウィーンではサリエリらの陰謀と妨害によって、作品の評
価は賛否が完全に分かれたのです。
 プラハの興行師パスクワーレ・ボンディーニは、モーツァルト
に次のシーズンにぜひオペラを一曲書いて欲しいと依頼します。
モーツァルトはこの依頼を引き受け、そして作曲されたのが、ダ
・ポンテの台本による歌劇『ドン・ジョバンニ』なのです。
 しかし、この年1787年5月にはモーツァルトの表情をもっ
と暗くさせる悲報がもたらされます。父レオポルトの死です。こ
の時点で既にモーツァルトの父への手紙は非常に少なくなってい
たのですが、それでもそれによってモーツァルトの心の動きを窺
い知る貴重な資料だったのです。しかし、父の死によって当然手
紙はなくなるわけで、モーツァルトの心情を探る手ががりが完全
に消失してしまったことを意味します。
 ここで、モーツァルトがフリーメーソンの会員になった経緯に
ついて述べておくことにします。フリーメーソンは、1717年
7月にロンドンで大ロッジが創設されて以来、ロッジ組織がヨー
ロッパ中に広がったのです。
 モーツァルトが生活していたウィーンでは、皇帝ヨーゼフ2世
がフリーメーソンを容認していたので、多くの貴族が入会してお
り、一種の社交機関となっていたのです。モーツァルトも知識人
たちとの心のつながりを持ちたいと考えて入会したものと考えら
れます。
 当時、既にドイツではゲーテやレッシング、フランスではボー
マルシェやスタンダール、英国ではスウィフトが会員であったこ
ともモーツァルトの入会の動機になったと考えられますが、モー
ツァルトの場合、22歳で母を亡くしたこともあって、若いとき
から、死と向き合う姿勢を抱いていたことも入会を決断する要因
になったのです。当時のフリーメーソンは、死を恐れない強い魂
を磨き、従容として死を受け入れることを大きな課題としていた
からです。
 ウィーンでは、皇帝の容認もあり、ロッジの組織もしっかりし
ていたので、フリーメーソンは盛んだったのですが、ミュンヘン
を中心としたドイツのバイエルン地方では、選帝侯のカール・テ
オドールはフリーメーソンの禁止令を出していて、地域によって
フリーメーソンの受け入れには差があったのです。
 フリーメーソンとは、「人間はすべて平等である」と考える組
織なのです。そんなことは、現代では当たり前じゃないかという
なかれ、モーツァルトの活躍していた18世紀のヨーロッパ社会
は階層社会であり、下の階層の者は上の階層の者にまともに接す
ることはできなかったのです。
 しかし、そういう時代にあって、「人間はすべて平等である」
という思想は一般市民にとっては画期的ですが、貴族にとっては
危険思想であったといえます。そういう意味では、そういう思想
を積極的に受け入れた皇帝ヨーゼフ2世は、大変な改革派である
といってよいと思います。
 もともとマリア・テレジアはフリーメーソンを禁止していたの
です。しかし、ヨーゼフ2世が1780年に皇帝になると、彼は
禁止令を撤廃し、自らも会員になったというのです。しかし、あ
まりにも会員数が増えてくると、皇帝はそれを恐れるようになり
それに1989年7月14日にフランス革命が起こって、妹のマ
リー・アントワネットが殺されると、一転して弾圧政策を取るよ
うになります。
 戯曲『フィガロの結婚』においてボーマルシェは、フリーメー
ソンでいうところの平等の思想を次のように、フィガロのセリフ
として主張しています。もちろんこの部分は、オペラにおいては
省かれています。
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 生まれ合わせの偶然で、ある者は王として、またある者は牧童
 として誕生する。幸運が両者の運命を分かつのである。だが、
 事態を変革できるのはあくまで人の才能である。死によって、
 20人の王がとどめをさされるとしても、ヴォルテールは不死
 のままである。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、オペラの方もよく分析すると、表現こそ違うが歌に隠
れて平等の思想が主張されていることがわかるのです。モーツァ
ルトは確信犯であるといえます。・・・・ [モーツァルト14]


≪画像および関連情報≫
 ・啓蒙専制君主としてのヨーゼフ2世
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  18世紀のヨーロッパ各国では、啓蒙思想が広まって新しい
  社会の息吹が聞こえていた。責任内閣制を成立させ、産業革
  命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成
  したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩
  んでいた。プロセインやロシアでも、絶対君主制の枠を超え
  るものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようと
  した啓蒙専制君主が現れた。オーストリアのヨーゼフ2世が
  貴族の特権をおさえようとしたり、宗教寛容令を出してカト
  リック教会の特権的地位を弱めようとしたことは、「絶対君
  主」が「社団」を利用して君主権を強化したことに対してそ
  の反対に「社団」の弱体化や特権剥奪によって君主権強化を
  図ったものである。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

1936号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:55| Comment(0) | TrackBack(1) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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