2006年10月05日

ウィーンでの初演の妨害陰謀工作(EJ1935号)

 歌劇『フィガロの結婚』の初演の日は、実ははっきりしていな
いのです。関連する諸資料を調査したところ、次の日が正しいと
考えられます。
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       歌劇『フィガロの結婚』
       完成:1786年 4月29日
       初演:1786年 5月 1日
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 歌劇『フィガロの結婚』の初演は、サリエリ一派の妨害工作に
よって満足のいくかたちでの成果は得られなかったといえます。
歌手たちは指揮者モーツァルトの指示に従わず、いい加減に歌っ
たので、モーツァルトは一幕が終わると、皇帝にそのことを訴え
たといいます。皇帝は歌手たちに対して「本文をわきまえろ」と
叱責したので、二幕以降は何とかオペラを続けることができたと
いうのです。
 しかし、最上階に陣取る一派は、ありったけの力をこめて大声
を出すなど、歌手や観客の耳を塞ぐ妨害工作を行ったのです。何
が何でも成功させないという妨害です。しかし、公平無私の音楽
通たちからは、これが並みの音楽ではないとわかったので、何回
もブラヴォーの声がかかったのです。
 1786年5月11日付の「ウィーン新聞」は、歌劇『フィガ
ロの結婚』の初演について次のように報じています。
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 聴衆は初演の日は、実際、どういう態度をとるかわかりかねて
 いた。偏見をもたない観客からは多くのブラヴォーの叫び声が
 挙がったが、最上階に陣取った騒々しい無骨者どもが、かれら
 の金づくりの肺――金を払って動員された連中の肺の意――を
 用いて、あらんかぎりの怒号を浴びせ、歌手の声も聴こえなく
 してしまった。その結果、最後まで――このオペラへの聴衆の
 ――態度は分裂したままであった。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新・田口孝吉訳
      『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学
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 しかし、評価の定まらぬままで5月3日に再演、続いて8日に
3回目の上演が行われたのです。このときは、7曲ものアンコー
ルが続き、アンコール禁止令が出される騒ぎとなったのです。
 その後、5月24日に4回目が上演された後は、8月、9月、
11月に各1回ずつというようになり、12月18日に上演され
た後は、ウィーンでの上演は陰をひそめてしまうのです。
 しかし、歌劇『フィガロの結婚』について正しい評価を下して
いた音楽家は多くいたのです。あのリヒャルト・ワーグナーもそ
の1人です。ワーグナーは、この作品について、次のように述べ
ています。
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 『フィガロの結婚』は実に自信にあふれた傑作である。モーツ
 ァルトは、イタリア・オペラ・ブッファの確固とした基礎のう
 えに見事な構築物を築き上げた。だからこそ彼に削除を求めて
 きた皇帝に対し一音符たりとも取り除くことは出来ないと正当
 にも断言したのである。イタリア人作曲家たちが楽曲間に月並
 みなつなぎ楽句としていたものを、モーツァルトは舞台進行、
 音楽進行に徹底して活気をもたらすために応用した。(中略)
 陰謀と即妙な機転が仮借のない闘いを広げるのである。
                ――リヒャルト・ワーグナー
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
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 このワーグナーの批評の中で「彼に削除を求めてきた皇帝に対
し、一音符たりとも取り除くことは出来ないと正当にも断言」と
あるのは、皇帝が「大変素晴らしいが、音が少し多過ぎる」と感
想を述べたことに対するモーツァルトの反論のことです。
 サリエリをはじめとするイタリア宮廷音楽家たちは、オペラの
中の楽曲と楽曲の間に、全体との構成をあえて考えずに対話とし
てつなぎ楽句を入れていたが、『フィガロの結婚』ではその部分
も完全な音楽と化しており、音楽それ自体が対話となっているこ
とを指摘しています。つまり、モーツァルトの音楽は一音符たり
とも取り除くことは不可能なほど完璧なのです。
 しかし、ウィーンでは、サリエリらの想像を絶する妨害により
思うような成果が上げられなかったことを受けてモーツァルトは
たまたま誘いがあったこともあり、プラハで『フィガロの結婚』
の上演をしようと決意するのです。
 『フィガロの結婚』の内容自体が、伯爵の陰謀を巧妙なフィガ
ロの機転で切り抜けるという話ですが、モーツァルトもサリエリ
ら貴族の陰謀を機智で排除することに意欲的だったのです。ワー
グナーが「陰謀と即妙な機転が仮借のない闘い」と表現したのは
モーツァルトの貴族に対する闘いを意味していると思われます。
 しかし、比較的モーツァルトに好意的なヨーゼフ皇帝にしても
貴族の一員であり、ウィーンにおけるモーツァルトの壮絶な闘い
は、どうしてもモーツァルトには不利であったといえます。
 1786年12月、プラハから『フィガロの結婚』の上演の話
がきたのです。モーツァルトは、コンスタンツェも連れて、17
87年1月早々にプラハに旅立ちます。そして1月17日に『フ
ィガロの結婚』の上演が行われていますが、これにはモーツァル
トは指揮をしていないのです。
 19日にはモーツァルト自身のコンサートが国立劇場で行われ
交響曲第38番ニ短調「プラハ」が披露されたのです。その後ク
ラヴィアによる即興演奏が行われ、その中で『フィガロの結婚』
のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をモーツァルトが演奏し
たところ、劇場は大歓声につつまれたのです。そして、3日後の
22日、モーツァルトの指揮で『フィガロの結婚』が上演され、
大成功を収めたのです。   ・・・・・ [モーツァルト13]


≪画像および関連情報≫
 ・ヨーゼフ2世について
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  神聖ローマ帝国皇帝。在位は1765〜1790年。フラン
  ツ1世とマリア・テレジアの子、マリー・アントワネットの
  兄に当たる。父帝フランツ1世の死後、母マリア・テレジア
  とともに共同統治を行う。啓蒙思想のの影響を受けながら、
  絶対主義の君主であろうとした啓蒙専制君主の代表的人物で
  あった。その急進的改革ゆえ、「民衆王」、「皇帝革命家」
  などのあだ名がある。        ――ウィキペディア
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1935号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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