2006年10月03日

3大オペラとフランス革命の精神(EJ1933号)

 このあたりから、「モーツァルトは果たして殺されたのか」と
いう謎の解明に入っていきます。モーツァルトは若くして病死し
たことになっていますが、モーツァルトは毒殺されたとする説が
根強くあるのです。
 モーツァルトとコロレド大司教との確執、コンスタンチェとの
結婚、超多忙の仕事にもかかわらず多大の借金による生活苦、3
大オペラの作曲など――そういうものがすべてモーツァルトの死
に深くかかわってくるのです。
 ここで、モーツァルトの3大オペラとは次の作品であり、モー
ツァルトの謎の解明には研究が不可欠なオペラです。
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 歌劇『後宮からの誘拐』 ・・・・・ 1782 → 自由
 歌劇『フィガロの結婚』 ・・・・・ 1786 → 平等
 歌劇『魔笛』 ・・・・・・・・・・ 1791 → 友愛
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 なぜ、3大オペラが重要な意味を持つのかというと、その基本
テーマがフランス革命やフリーメーソンのスローガンと一致する
からです。さらに、歌劇『フィガロの結婚』はイタリア語ですが
歌劇『後宮からの誘拐』と歌劇『魔笛』はドイツ語で書かれてい
ること――つまり、生粋のドイツオペラであることです。
 歌劇『後宮からの誘拐』をイタリア語で書くか、ドイツ語で書
くかを議論するシーンは映画『アマデウス』にあります。皇帝ヨ
ーゼフ2世がモーツァルトにはじめて会うシーンでです。
 サリエリが作曲したモーツァルトの入場のマーチを皇帝がたど
たどしく弾いている――そこにモーツァルトが入ってくる、あの
シーンです。そのとき、皇帝とモーツァルトはドイツ語のオペラ
を作ろうということで意見が一致します。
 当時オペラはイタリア語で書くことが常識であったので、その
場にいた宮廷楽長のサリエリをはじめ、3人のイタリア人の音楽
教師は全員反対し、結論は出なかったのです。
 しかし、次回にモーツァルトが皇帝に会ったとき、その前と同
じメンバーがいたのですが、そこでは皇帝が自ら「ドイツ語でや
ろう」ということで結論を出したのです。本格的なドイツ・オペ
ラ誕生の瞬間です。
 『後宮からの誘拐』は5回上演されましたが、大成功だったの
です。さらに年は違うが、モーツァルトと同時代の作曲家である
クリストフ・ヴィリバルト・グルックは、このオペラが大変気に
入り、たっての希望で6度目の上演が行われたのです。
 その後、『後宮からの誘拐』はブルグ劇場で15回上演された
のです。そして1785年までに初演されたのは、プラハ、ワル
シャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ、
マンハイム、カールスルーエ、ケルン、ザルツブルグ、ドレスデ
ン、ミュンヘンなどで、モーツァルトの生前中に最も多く上演さ
れたオペラとなったのです。
 『後宮からの誘拐』の成功に大衝撃を受けたのは、サリエリら
のイタリアの宮廷音楽師たちです。皇帝の決定でドイツ語のオペ
ラが作られたこと、さらにそのオペラが極めて優れていたこと、
それにそれが大ヒットしたことによって自分たちの地位が危なく
なると本気で怖れたのです。このときから、彼らのモーツァルト
に対する陰湿きわまる妨害工作がはじまるのです。
 ところでこの『後宮からの誘拐』にはそのエンディングに意外
性があります。戯曲を作成したのはブレッナーという人ですが、
モーツァルトが選んだ台本作家のシュテファーニは、内容を大幅
に変更しているのです。
 当時は著作権があまり厳しくなかったので、原作は大幅に改訂
されることが多かったのです。細かな改訂は多くありますが、第
3幕を大幅に変更しています。
 コンスタンツェを救い出そうとして、太守ゼリムの屋敷に忍び
込んだスペインの青年貴族ベルモンテは、原作では実は太守の子
供という設定になっているのです。そのためにすべての罪が許さ
れるという結末になっているのです。
 モーツァルトと台本作家のシュテファーニは、ベルモンテを太
守の子供ではなく宿敵の子に変えています。そのうえで太守ゼリ
ムがそのうえですべてを許す方が劇的であり、意外性が増すと考
えたからです。
 貴族中心の社会である18世紀末において、宿敵の子でさえも
許す太守の寛容の精神――これこそが真のキリスト教の精神に通
じるとモーツァルトは考えたのです。そして、これがモーツァル
ト最後のオペラ『皇帝テイトの慈悲』につながってくるのです。
 モーツァルトが次に目をつけたのが、ボーマルシェの喜劇「た
わけた一日、あるいはフィガロの結婚」の台本なのです。この劇
がコメディ・フランセーズで行われたのが1784年4月27日
のことです。
 貴族のプライドを傷つける揶揄に満ちたこの作品は評判になり
ハプスブルグ家からルイ16世の王妃となったマリー・アントワ
ネットの熱心な勧めで国王もこの劇を鑑賞したのです。
 しかし、ルイ16世は劇の途中から怒り狂ったのです。そして
終幕を前にして、国王は次のように叫んだといわれます。
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 汚らわしい!こんな危険な作品を上演するのは、バスティーユ
 (政治犯の収容所)を取りこわすのも同じだ!上演禁止!
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
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 いうまでもなく、「たわけた一日、あるいはフィガロの結婚」
は歌劇『フィガロの結婚』の原作です。モーツァルトは、これを
ドイツ語でオペラにしようとしたのです。戯曲を上演しようと計
画したのがシカネーダー一座だったのです。実はこの戯曲は、フ
ランス革命の引き金のような役割を果たす作品となるのであり、
そのオペラ化は危険な試みといえます。・ [モーツァルト11]


≪画像および関連情報≫
 ・グルックとサリエリ
  クリストフ・ヴィリバルト・グルックは、18世紀にオース
  トリアとフランスで活躍したオペラの作曲家。バレエ音楽や
  器楽曲も手懸けたが、現在では歌劇『オルフェとエウリディ
  ーチェ』によって、中でも間奏曲〈精霊たちの踊り〉によっ
  てとりわけ有名。
  アントニオ・サリエリは、グルックと同様に16世紀に活躍
  したイタリアのレガノ生まれの作曲家である。サリエリは同
  時代には世間からかなりの賞賛を得ていた。幼少のころから
  たぐいまれな才能を顕わしたあと、1766年にウィーンの
  宮廷に宮廷へ招かれた。それ以後ウィーンにとどまり、17
  88年には宮廷作曲家に任命され、亡くなる直前の1824
  年までその地位にあった。      ――ウィキペディア

1933号.jpg
posted by 平野 浩 at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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