2006年09月27日

1782年以降に何があったか(EJ1929号)

 モーツァルトの生涯は次の35年です。モーツァルトのことを
調べるに当たって、またモーツァルトの作品を聴くに当たって、
その作品がどの年代に作られているかについて知っておくことは
大切なことであると思います。
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    誕生/1756. 1.27/ザルツブルグ
    死亡/1791.12. 5/  ウィーン
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 モーツァルトの主要なオペラといえば、次の5つが上げられま
す。発表年代と合わせて記述しておきます。
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 1.歌劇「後宮からの誘拐」 ・・・・・・・・ 1782
 2.歌劇「フィガロの結婚」 ・・・・・・・・ 1786
 3.歌劇「ドン・ジョバンニ」 ・・・・・・・ 1787
 4.歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」 ・・・・ 1790
 5.歌劇「魔笛」 ・・・・・・・・・・・・・ 1791
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 交響曲についても、代表的な6曲を発表年代と合わせて記述し
ておきましょう。
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 1.交響曲第35番「ハフナー」 ・・・・・・ 1782
 2.交響曲第36番「リンツ」・・・・・・・・ 1783
 3.交響曲第38番「プラハー」 ・・・・・・ 1786
 4.交響曲第39番 ・・・・・・・・・・・・ 1788
 5.交響曲第40番 ・・・・・・・・・・・・ 1788
 6.交響曲第41番「ジュピター」 ・・・・・ 1788
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 これを見ると、誰でも知っているモーツァルトの有名な作品は
1782年以降に集中的に作曲されていることがわかります。こ
の年、モーツァルトには何があったのでしょうか。
 モーツァルト父子は、1775年にミュンヘンから戻ってくる
と、しばらくザルツブルグにいたのです。実は、1773年7月
にモーツァルト父子はウィーンに行っているのです。その目的は
ザルツブルグ脱出計画の実現です。
 このとき、コロレド大司教はザルツブルグを留守にしており、
休暇届が却下される恐れがない機会を利用して強行したのです。
しかし、このときウィーンには皇帝はおらず、2人はマリア・テ
レジアの御前に伺候しているのです。
 マリア・テレジアは、裏ではいろいろモーツァルトの邪魔をす
るのですが、会うのを拒否しないはがりか、表面上は慈悲深く振
舞ったのです。しかし、それはあくまでうわべだけのことで、就
職の可能性は掴めず、レオポルトの計画は失敗に帰すのです。
 しかし、モーツァルトにとって、このウィーンで過ごした10
週間は、就職こそできなかったものの、その後のモーツァルトの
音楽に大きな影響を与えたのです。ウィーン音楽に触れてから、
モーツァルトの音楽は劇的な変貌を遂げるのです。彼はこのウィ
ーン滞在期間中に次の6つの弦楽四重奏曲を作曲しています。
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 1.弦楽四重奏曲/メヌエット ・・・・・・・ 1773
 2.弦楽四重奏曲/ イ長調 第 9番 ・・・ 1773
 3.弦楽四重奏曲/ ハ長調 第10番 ・・・ 1773
 4.弦楽四重奏曲/変ホ長調 第11番 ・・・ 1773
 5.弦楽四重奏曲/変ロ長調 第12番 ・・・ 1773
 6.弦楽四重奏曲/ ニ短調 第13番 ・・・ 1773
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 1777年3月にモーツァルト父子は、コロレド大司教に休暇
届を出すのですが、却下されてしまいます。そこで、モーツァル
トは宮廷管弦楽団を辞職し、母と一緒にマンハイムとパリに行っ
て就職先を探ったのです。
 しかし、この判断は失敗だったのです。1778年7月に母が
パリで死去したり、結婚したかったアロイジアに失恋し、散々の
目にあったからです。
 そして、モーツァルトは、1779年1月にザルツブルグのコ
ロレド大司教に詫びを入れて、宮廷管弦楽団に復職するのです。
大司教はモーツァルトを受け入れ、今まで年俸150フロリンで
あったのを3倍の年俸450フロリンにして迎えたのです。大司
教としても、モーツァルトを手元に置いておきたかったのです。
 しかし、それも長くは続かなかったのです。1780年にミュ
ンヘンの選帝候カルル・テオドールから、オペラの作曲を委嘱さ
れるのです。そのときの作品は「イドメデオ」なのです。これに
関しては、コロレド大司教は反対できないので、モーツァルトは
6週間の予定でミュンヘンに行くのです。1780年11月のこ
とです。この予定であれば、モーツァルトは年内にザルツブルグ
に帰っていなければならないのです。
 しかし、1781年3月まで彼はミュンヘンにいたのです。途
中から父のレオポルトもミュンヘンにきています。ちょうどこの
とき、大司教が父親の病気見舞いのためウィーンにきていて、ザ
ルツブルグにいなかったので、それが可能だったと思われます。
 しかし、1781年3月にウィーンにいた大司教にモーツァル
トはウィーンに来いと呼び出されるのです。それは、文句をいう
ために呼び出したのではなく、自分がウィーンで音楽会を開くた
めにモーツァルトを必要としたのです。演奏させたり、作曲させ
たりするためです。
 確かに契約上はモーツァルトはコロレド大司教に雇われており
命令に従う義務があります。しかし、モーツァルトはウィーンで
は大作曲家であり、演奏などはやらないのです。しかし、大司教
はそれを強制する――そういう点がモーツァルトとしては耐えら
れず、大司教と大喧嘩になってしまい、1781年5月に解雇さ
れてしまうのです。そして、ちょうどその年の12月にモーツァ
ルトは結婚を決意するのです。 ・・・・ [モーツァルト07]


≪画像および関連情報≫
 ・「選帝候」とは何か
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  神聖ローマ帝国とは962〜1806年に西ヨーロッパに存
  在したドイツを中心にした連邦国家である。初めから、神聖
  ローマ帝国と名乗ったわけではなく、11世紀にはローマ帝
  国、12世紀には神聖帝国、13世紀になってから神聖ロー
  マ帝国、15世紀後半からはドイツ人の神聖ローマ帝国とよ
  ばれるようになる。13世紀初頭に有力な神聖ローマ帝国皇
  帝がいない、大空位時代が発生すると選帝候と呼ばれる人々
  が皇帝を選ぶことが慣例として発生し、1356年の金印勅
  書で、7人の(マインツ、ケルン、トリアの3宗教諸侯、ボ
  ヘミア王、ザクセン公、フランデンブルク辺境伯、プファル
  ツ伯の4世俗諸侯)による選挙によって皇帝を選ぶことが制
  度化される。
       http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu21.html
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1929号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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