2006年09月26日

マリア・テレジアとモーツァルト(EJ1928号)

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 乞食みたいに方々をうろつきまわっている、役にも立たぬ人間
 に悩まされぬようにしなさい。    ――マリア・テレジア
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 これは、女帝マリア・テレジアがモーツァルト父子の立ち回り
先に出していたいわばふれ状なのです。神聖ローマ皇帝フランツ
1世シュテファンの皇后であるマリア・テレジアのこのようなふ
れ状を見れば、誰もモーツァルトを雇おうとはしないはずです。
モーツァルト父子は何か女帝の逆鱗に触れるようなことをしてし
まったのでしょうか。
 1762年9月18日、モーツァルト一家は姉のナンネルも連
れてザルツブルグを出発し、10月6日にウィーンに到着してい
ます。モーツァルトにとって最初の旅行です。モーツァルトが6
歳のときのことです。
 一週間後の13日にシェーンブルン宮殿の皇帝の前で、演奏会
を開いているのです。そのとき聴いていた皇帝一族のなかに女帝
マリア・テレジアと娘のマリー・アントワネットがいたのです。
 このとき女帝はモーツァルトの音楽に感心し、父のレオポルト
には年収の倍くらいの金額の褒美を与え、モーツァルトとナンネ
ルに礼服を与えるなど大変厚遇しているのです。
 しかし、モーツァルトが12歳のとき、1768年12月に再
びウィーンに行って、マリア・テレジアに拝謁したときは、一転
して冷たかったといいます。いったい何が原因なのでしょうか。
 考えてみると不思議なことはたくさんあるのです。なぜ、ザル
ツブルグ宮廷管弦楽団の一員に過ぎないレオポルトが、皇帝の前
で演奏できたかということです。その当時、確かにモーツァルト
は天才の片鱗を示してはいましたが、現代のようにマスコミが発
達していない時代であり、それがウィーンにまで聞こえていたと
は思えないのです。よほど強いコネクションでもないと、皇帝に
会うことなど不可能です。
 モーツァルト一家が何らかの特命を帯びていたという説もある
のです。当時は現代のように簡単に国を出ることができなかった
時代であり、各国を旅する音楽家が特命を帯びることがあっても
おかしくはなかったのです。
 こうも考えられます。既に述べたように、当時は音楽家の社会
的身分は低く、まだ幼い子供が大人顔負けの音楽を作曲したり、
演奏するというので会ってみたが、こういうものは一度聴けば十
分ということで冷たくなったという説です。つまり、見世物とし
て興味本位でモーツァルトの演奏を聴いたわけです。
 もうひとつ、モーツァルトが知らないで、マリア・テレジアの
恨みを買うようなことをしたというものです。
 時期が前後するのですが、こういういきさつがあります。ミラ
ノ公国のフェルデナント大公がモデーナ・エステ家の娘と結婚す
るときの式典のための音楽――こういう式典のための音楽はほと
んどオペラである――をモーツァルトに委嘱したのです。このフ
ェルデナント大公はマリア・テレジアの息子との1人なのです。
このときモーツァルトの書いたオペラは次の曲です。
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   「アルパのアスカニオ(二幕の劇場セレナータ)」
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 しかし、モーツァルトを信用していないマリア・テレジアは、
自分の音楽教師であるヨハン・アドルフ・ハッセにもオペラの作
曲を依頼していたのです。
 しかし、「アルパのアスカニオ」は成功したのに対し、ハッセ
のそれは失敗に終わったのです。マリア・テレジアが本当に音楽
がわかっていれば、既に70歳を越えていたハッセがモーツァル
トに勝てるはずがないことはわかったはずですが、彼女はそれを
根にもってモーツァルトに冷たくしたという説です。これによっ
て、レオポルトによるイタリア永住計画は、マリア・テレジアの
反対によって潰されたというわけです。
 このように数ある説の中で、最もあり得るのは、マリア・テレ
ジアがモーツァルトをヴァチカンのスパイではないかと疑ってい
たとする説です。考えてみればヴァチカンは天才音楽家といって
もまだ年端もいかぬ子供のモーツァルトに「黄金の軍騎士勲章」
を与えており、これは一種の外交特権となって、モーツァルトが
多くの貴族と会いやすくなっていたことは確かだからです。
 ハプスブルグ家はもちろんカトリックです。教皇から皇帝に戴
冠される立場であり、信仰は篤かったことは間違いないのです。
しかし、教会とは対立関係にあったのです。イエズス会や他の修
道会は解散させられ、ウィーンにおける聖職者の影響力は低下し
つつあったといえます。それにカトリックにとっては敵ともいう
べきユダヤ教徒やプロテスタントも、礼拝してよいということに
なったのです。マリア・テレジアは、帝国の統治の改革に乗り出
しており、宗教の改革に関しても手をつけつつあったのです。
 ハプスブルグ家の内部でも一枚岩ではなかったのです。フラン
ツ1世は遊び人で政治のことは奥さんのマリア・テレジアにまか
せており、女帝が全権を握っていたのです。娘のマリー・アント
ワネットはフランスに嫁ぎましたが、息子のヨーゼフ2世は急進
改革派であったのです。彼は日頃から母親の改革は手ぬるいと考
えていたようです。
 それでもマリア・テレジアはいろいろな改革に手を染めていた
のです。プロテスタントやユダヤ教徒に関する寛容令、農奴制の
廃止、拷問と死刑の廃止、出版物の検閲の緩和、病院、孤児院の
増設・拡充など、いろいろな改革を進めつつあったのです。
 ヴァチカンとしては、そういう周辺国の情報を必要としていた
のです。周辺国の中には実質上一国に近いザルツブルグも情報収
集の対象に入っていたと思われます。
 そうなると、ザルツブルグのコロレド大司教とモーツァルトの
不仲の原因は、こんなところにあるのではないかと思います。音
楽家が政治に巻き込まれているのです。・ [モーツァルト06]


≪画像および関連情報≫
 ・マリア・テレジア銀貨
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  マリア・テレジアといえば、有名なオーストリア・ハプスブ
  ルグ家の女王です。 彼女の在位は1740〜1780年で
  した。この女王の像を刻んだ銀貨が、不思議なことに、東ア
  フリカとアラビア半島の一部で異常な人気を呼びました。
   「人気」という言葉はふさわしくないかもしれませんが、
  その実質的な価値以上の価値をもって取引されたのです。エ
  チオピアの西部にあるカファ地方はコーヒーの語源にもなっ
  たところです。コーヒーを買うためには、他のどんな貨幣で
  も受け入れられず、マリア・テレジアの銀貨だけが使われた
  のです。何と200年近くもです。
  http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/E015.htm
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1928号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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