2006年09月25日

評価を高めたイタリアへの旅(EJ1927号)

 モーツァルトが世に出るために重要な役割を果たしたのは3度
にわたるイタリア旅行です。いずれも父のレオポルトと一緒に旅
をしています。
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  第1回 ・・・ 1769年11月〜1771年 3月
  第2回 ・・・ 1771年 8月〜1771年12月
  第3回 ・・・ 1772年10月〜1773年 3月
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 モーツァルトの後ろ楯になったシュラッテンバッハ大司教が亡
くなったのは、第2回のモーツァルト父子が、イタリア旅行から
帰った日の翌日の1771年12月のことです。
 1772年にコロレド伯爵がザルツブルグ大司教に選出されま
すが、コロレド大司教は就任するとすぐ、無給のコンサートマス
ターであったモーツァルトを有給に昇格させています。そうする
ことによって、なるべくモーツァルトにザルツブルグに腰を落ち
着かせて、働いてもらおうと考えたからです。
 さらに、新大司教は、その年の10月からのモーツァルト父子
のイタリア行きを認めています。コロレド大司教がモーツァルト
家に一定の配慮を示したというのは確かなことなのです。ただ、
新大司教は、モーツァルトが後世において世界的に名を残すよう
な大作曲家になることは見抜けなかったのです。
 それにしてもモーツァルトはよく旅行していますが、次のデー
タがあります。
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     モーツァルトの生涯 ・・ 13097日
     旅行期間 ・・・・・・・・ 3720日
     旅行回数 ・・・・・・・・・・ 17回
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 つまり、モーツァルトは人生の28.4%は旅行していたので
すが、それは観光旅行などではなく、よりよい仕事を求めての旅
であったのです。
 1770年7月にモーツァルトは、ローマ教皇クレメンス14
世から「黄金の軍騎士勲章」を授与されています。わずか14歳
での受賞なのです。音楽家でこの勲章をもらったのは、モーツァ
ルト以外では、16世紀のオルランド・ディ・ラッソのみ――ル
ネッサンス時代まで遡らないと誰もいないのです。
 それでは、どうして、モーツァルトはこの勲章を受章できたの
でしょうか。
 それは、当時イタリアには優れた音楽家が大勢いて、モーツァ
ルトの並外れた音楽的才能を見抜く人が多かったからです。これ
については、次の3つの逸話が残っています。
 1つは、モーツァルト父子がボローニヤに滞在しているとき、
モーツァルトは、ボローニヤの由緒あるアカデミア・フィラルモ
ニカの会員に推挙されていることです。
 その会員は、通常かなりの年齢と経験を積んだ作曲家だけに与
えられるものであり、その資格を問う厳しい試験――和声と対位
法――があったのですが、モーツァルトはその関門をあっさりと
クリアしているのです。
 2つは、秘曲「ミゼレーレ」にまつわる有名な逸話です。モー
ツァルト父子はローマに着くと、すぐヴァチカンのシスティーナ
礼拝堂をたずねています。礼拝をするというより、そこで歌われ
ている、アレグリという作曲家が作曲した秘曲「ミゼレーレ」を
聴きに行ったのです。
 秘曲「ミゼレーレ」は、この礼拝堂以外で歌うことが禁ぜられ
楽譜の持ち出しも禁止されていたのです。モーツァルトはこの曲
を聴いて宿に戻り、五線譜にその曲を書き写し、2回目にそれを
聴いて確かめたところ、ほとんど間違っていなかったという天才
ぶりを発揮したのです。
 父のレオポルトは、門外不出の曲の秘曲にそのようなことをし
てはならないと止めたのですが、それはかえってモーツァルトの
評価を高めるだけで、誰もとがめなかったというのです。ちなみ
にこの曲は、1981年に映画「炎のランナー」のサウンドラッ
クに採用されたことで国際的知名度を獲得しています。
 3つは、歌劇「ポントの王ミトリダーテ」(K87)の公演の
成功です。このオペラは、1770年12月20日に上演されて
いるのですが、その初日にはどのアリアも終わるたびに「マエス
トロ万歳、マエストリーノ(小さな巨匠)万歳」と叫ぶ喝采が劇
場全体を揺るがすほど、アンコールされたのです。
 さらにモーツァルトは、1772年の歌劇「ルチオ・シルラ」
でも、さまざまな困難を乗り越えて、成功させています。これに
よってモーツァルトは、イタリアにおいては誰一人知らぬ者はい
ないほど有名な音楽家になったのです。
 しかし、これほどの成功にもかかわらず、イタリア以外でのモ
ーツァルトの評価は嫉妬も加わって、今ひとつであったのです。
まして、コロレド大司教になってからは、いろいろな意味で自由
に行動することは困難になっていったのです。
 父のレオポルトは、このままザルツブルグにいたのでは、息子
は大成できないと考えたのです。というのも、これまでの成功に
よって息子のモーツァルトが少し天狗になっており、早熟で口や
かましく、生意気になっており、それに対してコロレド大司教が
嫌悪感を抱きつつあることがわかったからです。
 そこで、レオポルトは息子の永住の地として、イタリアを考え
て、つてを求めて動き始めたのです。さいわい、フィルミルアン
伯爵の後援を得て、フィレンツェのトスカーナ大公に接触したの
です。トスカーナ大公はモーツァルトの音楽を高く評価していた
のですが、結果は「ノー」という冷たいものだったのです。一体
その原因は何でしょうか。
 それは、女帝マリア・テレジアの邪魔であったのです。少なく
ともマリア・テレジアは、最初はモーツァルトを買っていたので
すが、どうしたことでしょうか。 ・・・ [モーツァルト05]


≪画像および関連情報≫
 ・アレグリ作曲/秘曲「ミゼレーレ」について
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  合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のため
  に作曲されており、かなりの名声を博してきた。合唱団の片
  方が聖歌〈ミゼレーレ〉の原曲を歌うと、空間的に離れたも
  う一方がそれに合わせて、装飾音型で聖句の「解釈」を歌う
  のである。《ミゼレーレ》は今でもシスティーナ礼拝堂の聖
  務週間で定期的に歌われている。1981年に映画「炎のラ
  ンナー」のサウンドトラックに利用されたことで、国際的な
  知名度を獲得するに至った。     ――ウィキペディア
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1927号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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