2006年09月22日

文化を改革しようとしたコロレド大司教(EJ1926号)

 シュラッテンバッハ大司教とコロレド大司教――これら2人の
大司教は後世ではとかく次のようにいわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   シュラッテンバッハ大司教 ・・・ 寛大なる大司教
        コロレド大司教 ・・・ 意地悪な大司教
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、これはあくまでモーツァルトの側から見ての評価であ
り、客観的には必ずしも正しい評価とはいえないのです。後世に
おいてモーツァルトが不世出の天才音楽家としての評価が定まっ
たことにより、モーツァルトに厳しく当たった人は、すべて悪者
にされてしまっている感があるからです。
 しかし、モーツァルトは幼少のときから周囲の大人からちやほ
やされて育ってきているので、おそらくわがままな性格の生意気
な青年であったと考えられます。映画『アマデウス』の中のモー
ツァルトもそのように描かれています。
 コロレド大司教は、18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で
思慮深く、贅沢を好まない知識人だったのです。当時の貴族とい
えば途方もない贅沢を尽くしたものでしたが、コロレド大司教は
質素を心がけ、倹約家であったといわれます。これは、なかなか
できないことであり、それだけでも彼がそれなりの人物であった
ことを窺わせます。
 コロレド大司教は、ことさらモーツァルトに厳しく当たったの
ではなく、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとし
たに過ぎないのです。それどころか、口ではやかましくいっても
モーツァルト一家が長い休暇をとって旅行をすることを事実上認
めるなど、モーツァルト一家に対するそれなりの配慮もしている
面もあるのです。
 このことを一番わかっていたのは父のレオポルトなのです。彼
は大司教と息子の板ばさみにあって苦しみます。もともと、シュ
ラッテンバッハ大司教のモーツァルトに与えた厚遇が度を過ぎて
いたのであって、それを少し正規の状態に戻したに過ぎないので
す。しかし、わがままなモーツァルトにとっては、それがどうし
ても気に入らなかったのでしょう。
 コロレド大司教が、まずモーツァルトに求めたことは、教会に
おける典礼音楽をもっと短く簡明にできないかということだった
のです。この大司教の命を受けて、モーツァルトが作曲したのが
次のミサ曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   小ミサ曲 第8番 ハ長調「雀ミサ」/K220
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このミサ曲にはモーツァルトの不満があふれているといわれま
す。普通であれば、グローリアもクレードもフーガ形式を使うの
ですが、それをしないで全体が簡略化されています。そのため、
アインシュタインはこれを「最短ミサ」と呼んでいます。
 伴奏ヴァイオリンの音形が雀のさえずりに似ているため、「雀
ミサ」と呼ばれているのですが、教会音楽らしくない華々しいト
ランペットの音は大司教への反発をあらわしているといわれてい
ます。このように批判を込めて作った曲でも立派な音楽になって
いる点はさすがにモーツァルトであるといえます。
 モーツァルトは、ある神父への手紙に「もっとも荘厳なミサで
さえも、45分以上にわたることはできないなんて音楽になりま
せん」と不満を訴えています。
 コロレド大司教は、このようにザルツブルグの政治や文化の改
革をしようとしたのですが、少しやり方が強引だったため、ザル
ツブルグ市民にとっても不評だったのです。そのため、コロレド
大司教には余計に悪い評判が立ってしまったのです。
 シュラッテンバッハ大司教の存命中にモーツァルト親子はミュ
ンヘン、ウィーン、パリ、ロンドンへ行ったあと、イタリアを訪
問しています。そして、1769年11月にイタリアに行くので
すが、この訪問は大成功だったのです。モーツァルトが15歳の
ときのことです。
 もし、このときの大司教がシュラッテンバッハ伯爵ではなくコ
ロレド伯爵だったら、おそらく休暇願いは却下されてしまったで
しょう。そういう意味では、モーツァルトにとってシュラッテン
バッハ大司教は大切な人であったといえます。
 それでは、コロレド大司教はモーツァルトにとって、ただマイ
ナスの上司であったかというと、そうではないのです。モーツァ
ルトが亡くなった時点で考えると、コロレド大司教の存在も結果
としてはモーツァルトのプラスになっているのですが、これにつ
いてはいずれ述べます。
 モーツァルトは生涯に3度イタリアに行っています。その最初
が、1769年12月から1771年3月までで、父のレオポル
トと一緒に行っているのです。
 イタリアは現在でもオペラの国ですが、その当時ドイツ・オペ
ラなどはなかったので、イタリアは、正真正銘の音楽の先進国で
あったのです。多くの音楽教師がイタリアから各国に派遣されて
おり、サリエリもその一人であったのです。当時オペラの書けな
い音楽家は一人前とはいえなかったのです。
 レオポルトは、息子にイタリアで本場のオペラに触れさせよう
としたのです。当時ドイツの著名なオペラの作曲家たち――ヘン
デル、ハッセ、グルックなどは、イタリアに長く滞在してイタリ
ア風の音楽語法を完全に修得しようとしていたのです。
 モーツァルト父子は、イタリアへは、インスブルック、ロヴェ
レート、ヴェローナ、マントーヴァを経由してミラノに到着して
います。それぞれの都市で演奏会を開いていますが、いずれも大
好評だったのです。とくにヴェローナでの演奏会では、詩人たち
が競ってモーツァルトを讃える詩を書くなど、大反響を呼んだの
です。マントーヴァでは、アカデミア・フィラルモニカの定期演
奏会に招かれ、見事なハープコードの演奏を披露し、大喝采を浴
びたのです。       ・・・・・・ [モーツァルト04]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトのイタリア紀行
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ヴェルグルを通ってインスブルックに着いた。ここで演奏会
  で協奏曲を演奏している。19日にここを去り、ブレンナー
  峠を越えて、あこがれのイタリアに入った!ヴィピテーノ、
  ブレッサノーネ、ボルツァーノ、トレントへ。現在でもこれ
  らのチロル地方は、イタリア語ではなくドイツ語が主流であ
  る。24日には、ロヴェレートに着き、ここで4日間滞在し
  トデスキ伯爵の邸で演奏会をし、教会でオルガンを弾き、大
  騒ぎになったという。27日頃、ヴェローナに着き、約2週
  間過ごした。1月5日のアカデミア・フィラルモニカの演奏
  会に出演し、大喝采を博した。1770年1月10日、ヴェ
  ローナを出て、マントヴァに着く。ここでハッセのオペラを
  見たと手紙に書いている。16日にはアカデミア・フィラル
  モニカで演奏会を開き、マントヴァの人々を熱狂させた。
  http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/mozart_fanciullezza2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1926号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
RDF Site Summary