2002年03月29日

情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ830号)

 藍川由美氏の指摘によると、昭和のヒトケタの時代には、中山
晋平の「波浮の港」「東京行進曲」「東京音頭」「天龍下れば」
などや古賀政男の「影を慕ひて」「酒は涙か嘆息か」「丘を越え
て」が一世を風靡し、昭和フタケタに入ると古関裕而や服部良一
が登場するのです。
 ところで中山晋平といえば、東京音楽学校を卒業したわが国の
クラシック音楽の総本山とされている人ですが、古関裕而は福島
商業学校卒で正式に音楽教育を受けておらず、独学で作曲を勉強
したのです。
 その古関裕而が、福島商業学校の5年生の夏から翌年の5月に
かけて作曲したオーケストラの作品が昭和4年の英国国際作曲コ
ンクールで第2位に輝いたというのですから、それは日本の音楽
史上の快挙というべきものです。
 しかし、藍川由美氏の指摘によると、その快挙が事実であるに
もかかわらず、堀内敬三の『音楽50年史』、中島健蔵の『証言
・現代音楽の歩み』には一切記載されていないのです。
 古関裕而は日本の音楽界にまったく後ろ盾がなく、独学でもあ
るので、東京音楽学校のメンツを重んじようとしたのか、それと
も国内の著名音楽家に遠慮したのか、この快挙が報道されること
はなかったのです。日本の音楽界は、古関のような在野の音楽家
を冷淡に扱う傾向が強かったことを藍川氏は指摘しています。
 古関裕而のオーケストラの作品がいかに素晴らしいかは、今で
もNHKがスポーツ放送のテーマ曲にしている「スポーツ・ショ
ウ行進曲」や、昭和39年、55歳のときに作曲した東京五輪用
の「オリンピック・マーチ」を聴けば明らかです。
 とくに「オリンピック・マーチ」は古関裕而の天分がいかんな
く発揮された名曲であり、世界中から、誰の作曲かという問い合
わせがNHKに相次いだといいます。そして、いつしか古関は、
「日本のスーザ」といわれるようになったのです。それなのに、
いまだに古関裕而の業績は高く評価されていないのです。
 軍歌の話からかなり脱線してきているようですが、国民歌謡や
時局歌謡(軍歌)は、そのまま校歌や応援歌につながってくる歌
であり、その根は同じものというべきです。そういう意味で古関
裕而も数多くの軍歌を作っているのです。
 その中でもとくに有名であり、名作といわれるものをいくつか
上げ、最初の歌い出しを書いておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.露営の歌 ・・・・・・ 勝ってくるぞと勇ましく
  2.暁に祈る ・・・・・・ ああ あの顔で あの声で
  3.若鷲の歌 ・・・・・・ 若い 血潮の 予科練の
  4.ラバウル海軍航空隊 ・ 銀翼つらねて 南の前線
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらく現在60歳以上の人であれば、最初の歌い出しを見れ
ば自然にメロディが出てくるはずです。それほど何回も聞いたし
聞かされた歌なのです。しかし、それ以上にこれらの歌が質的に
良かったからこそ、記憶に残ったのです。
 この中でとくに印象的なのは「露営の歌」です。この歌は、昭
和12年7月に支那事変がはじまったときに、東京日日・大阪毎
日新聞社(現在の毎日新聞社)が時局歌を募集したところ次点に
なった歌詞に基づいて作られたのです。ちなみに一等当選歌は、
「進軍の歌」であり、これは陸軍戸山学校軍楽隊が曲をつけ、次
点は古関裕而に作曲が委嘱されたのです。
 そのとき古関裕而は満州を旅行中だったのですが、電報で急遽
呼び戻されたのです。古関は下関で買った新聞で「露営の歌」の
歌詞を知り、下関から東京に戻る汽車の中で曲を作り、東京に着
いたときにはできていたという逸話が残っているのです。
 このときの選者のひとりに北原白秋がいたのですが、北原はこ
の「露営の歌」を評して、「うまく曲がつけば第二の『戦友』に
なるだろう」と評しているのを知り、古関は「それなら・・」と
車中にもかかわらず曲をつけたといっています。
 第1位の「進軍の歌」は、いかにも軍歌らしく武張った印象で
あるのに対して、「露営の歌」は戦陣に在って生きていくことの
実感と感慨とをにじませたヒューマンな、もののあわれに通じる
感傷性がみなぎっている良い歌です。
 「露営の歌」は5番までありますが、3番は少しトーンを落と
して歌うよう古関は指定しています。3番の歌詞を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
    暫し露営の草枕
    夢に出てきた 父上に
    死んで還れと 励まされ
    さめて睨むは 敵の空
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一般的に軍歌というと、行進曲風のいかにも士気を鼓舞する押
しつけ的な曲想が多いものですが、古関の曲の場合、行進曲風で
ありながら、そこに豊かな情感というものが感じられるのです。
それが何度歌っても飽きがこない音楽となっているのです。「露
営の歌」もそういう歌のひとつです。
 また、同じ行進曲でも単に勇ましいものから、希望が湧いてく
るものまでいろいろありますが、古関の行進曲風の曲には弾むよ
うなリズムがあって、しかも情感にあふれ、それが素直にやる気
を起こさせる原動力になっているものが多いのです。
 その典型的な歌に、戦後菊田一夫と組んで作ったドラマ「鐘の
鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」があります。これは、もとも
と戦災孤児を励まそうと、米国の占領軍が企画して菊田一夫にド
ラマの制作を依頼してできたものなのです。「緑の丘の 赤い屋
根 とんがり帽子の時計台・・・」ではじまる歌です。
 このドラマの主題歌がどんなに当時の子どもたちの力になった
か、印象に残ったか、現在50歳以上の人ならきっとわかると思
います。

830号.jpg
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(5) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
古関裕而が、山田耕作の推薦でコロムビア専属作曲家になったのが昭和5年と早い、作曲した曲も5000とも言われ数は多い。

しかし、ヒット曲がでるまで、5年の空白があって実質昭和10年の「船頭可愛や」がはじめてのヒット曲とされる。

その後も、「愛国の花」などあるが、ワンポイントで一貫した思いが感じられないようです。

軍歌・軍国歌謡をたくさん作ったが、これら以外いい歌もたくさんあるはずです。

いくつかを除いて、彼の作品のなかにメジャーなものが思い浮かばないということはあるが、とりあげられるのが、このようにいつも軍歌と終戦直後の作品というふうにパターンが限られてしまうのは残念です。


Posted by メロディ at 2011年08月20日 15:03
古関裕而の経歴の中に、昭和4年、イギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』が入賞したというのを目にする。

チェスター楽譜出版社という民間会社募集の作曲コンクールというのが、どんなものだったのかは知らないが、古関の自伝にも載ってなく、楽譜の所在さえ不明という。

自伝にも載ってなく、楽譜の所在さえ不明というものに、どれだけ意味があるのかわかりません。

弘田龍太郎は、戦時中、空襲から楽譜を守るため自宅(本郷)に地下室を作って、多くの楽譜を避難させて守ったという。これが作曲家の魂です。

ここに作曲家・弘田龍太郎の音楽に賭ける真摯な向会い方というものを感じます。

古関の場合mこの作品を含めて交響曲やピアノ協奏曲などクラッシック作品をたくさん作ったというのだが、現在ではほとんど行方不明になっているというのはまったく理解不能なことです。

藍川由美氏の指摘は一面的で大きな間違いが指摘できます。「中山晋平は、クラシック音楽の総本山とされている人ですが」とあるが、正しく言えば、クラシック音楽の総本山とされた東京音楽学校を出た作曲家だが、逆なのです。

彼の偉大なところ、彼の目指したものは、みずからがクラシック音楽の分野で名をなすことではなくして、童謡・新民謡・流行歌など誰でも歌える歌、子供でも歌える歌を作って歌ってもらう事にあり、大正時代から昭和にかけて実際そうしたことです。

古関が、クラシックの作曲から離れた理由に、実家が経済的に破綻して、一族を養わなくてはならず、次第にクラッシックから離れざるをえなくなった・・ともいわれている。

クラシック志望で山田耕作の推薦で待望のコロムビア専属作曲家になったのだが、入社後燃え尽きてしまったのでしょうか。

ものごとは最初が肝心といわれるが、どうしたのか、彼は最初から長い空白を作ってしまったのです。

このあたりが本当の古関裕而を知る上、重要かもしれません。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3%95%E8%80%8C

Posted by メロディー at 2011年08月21日 15:25
古関は流行歌には関心がなかったのか。彼にとっての音楽はクラシックだったようだ。しかしそれは専属作曲家として許されないことだったろう。

かれは、ヒット作が出ないことに専属作曲家として悩み、そして専属契約解除の危機を迎えることになる。

昭和五年の秋9月、古関裕而は山田耕筰の推薦により日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京する。でも出社通知と辞令はまだ手にしていなく、コロムビアからは一行に音沙汰がない。

山田は中山晋平のように面倒みはよくない。古関は優鬱な日々を送る。

古関裕而が正式に日本コロムビア専属作曲家になったのは、1年後の昭和6年10月という。

だから、コロムビア専属作曲家になったのは、古賀政男(昭和6年3月)と殆ど同じなのだ。

古関は長い空白のため、専属契約を解除されそうになるのだが、それを救って作曲活動を続けさせたのが古賀政男。

古賀の自伝でも触れているが、このあたりの事について以下のサイトに詳しい。

・近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html

古賀政男は。昭和5年吹きこみで、中山晋平の弟子で中山の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の歌で「影を慕ひて」「日本橋から」「文のかをり」など7曲をビクターレコードから出している。

昭和6年にコロムビア専属作曲家となった古関裕而と古賀政男は対照的なデビューを果たすことになる。

古関が悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、古賀メロディーが大衆の間に浸透していった。(毎日新聞社『写真昭和30年史』参照)

古賀メロディーが一世を風靡する中で、作曲家江口夜詩の入社をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
「それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。」

「苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀政男だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。」

古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになるのだが、結果的にはよかったといえるでしょう。
Posted by メロディー at 2011年08月26日 00:05
一般に歌謡曲・流行歌というとクラッシックと比べて一段低い音楽という捉え方をしがちです。

「歌謡曲」とは歌詞をもつ歌(歌曲)の意味ですです。「国民歌謡」の歌謡などと繋がります。

萩原朔太郎は所謂流行歌について「流行歌曲」という言葉を使っています。

昭和の流行歌作曲家は古賀政男、江口夜詩など、クラッシックから出発しています。

■流行歌・歌謡曲の意味について
大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、その内、言葉としては演歌、艶歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。

歌謡曲という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で歌謡曲という言葉が使われています。歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。

NHKがラジオ放送を始めて間もなく昭和2年頃に、歌謡曲が流行歌を指す放送用語として、便宜上、使ったのが最初だといわれています。「ちゃっきり節」の作曲者で日本民謡研究家の町田佳声(嘉章)が命名しました。流行歌という概念で歌謡曲という言葉を使ったのは昭和に入ってからです。昭和10年代に入ると歌謡曲という名称は一般的になっていきました。

昭和に入って、流行歌の世界は大きく変わります。米国ビクターが日本ビクターを設立、日本蓄音器商会が英米コロムビアと資本提携し日本コロムビアを作ります。流行歌の作られ方も、レコード会社が企画・製作し、新聞メディアなどの宣伝によって、大衆に選択させるという仕組みになりました。
    http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016.htm

・流行歌曲について  萩原朔太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html


なお、以下参考になります。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽
《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html

Posted by メロディー at 2011年08月29日 20:52
古関裕而が、山田耕作の推薦でコロムビア専属作曲家になったのが昭和5年と早い、作曲した曲も5000とも言われ数は多い。・・と書きましたが、古関裕而が正式にコロムビアの専属作曲家になったのは、昭和6年(1931)10月とのことですので訂正致します。

しかし、ヒット曲がでるまで、5年の空白があって実質昭和10年の「船頭可愛や」(音丸)がはじめてのヒット曲でデビューとされます。
Posted by メロディー at 2012年08月16日 10:46
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