国は、アウストラシア、ネウストリア、ブルグンド、アクィタニ
アの四国に分割されたのです。
そのうち、フランク王国の東北部を支配する分国アウストラシ
アの王、ジギベルト3世の子として生まれたのが、ダゴベルト2
世なのです。651年のことです。彼こそメロヴィング朝の血を
引く王子なのです。
しかし、ダゴベルト2世誕生の5年後にジギベルト3世が亡く
なると、大宰相のグリモアルドはその機に乗じてアウストラシア
国を乗っ取ることを企てるのです。この当時このようなことは頻
繁に行われていたのです。
グリモアルドは、5歳のダゴベルト2世を自ら誘拐して、死亡
したことを伝えます。そして、言葉巧みにダゴベルトの母親を説
得し、自分の息子をアウストラシア王に就任させるのです。しか
し、さすがにダゴベルト2世を本当に殺害することはできず、ア
イルランドに亡命させます。
ダゴベルト2世はダブリン近郊のスレイン修道院で教育を受け
て成長します。そして、ケルト族の王女マチルドと結婚して、北
イングランドのヨークに行って、ヨーク司教の聖ウィルフレッド
に出会うのです。運命的な出会いです。
聖ウィルフレッドは、ダゴベルト2世を利用して、クロヴィス
1世のときのように、フランク王国とローマ教会を強固な関係に
できないかと考えたのです。ところが、670年にダゴベルトの
妻が亡くなったのです。
好機到来と聖ウィルフレッドは、ダゴベルト2世の後妻を慎重
に選出し、ラゼ伯爵の娘で、西ゴート王の姪であるジゼル・ド・
ラゼと結婚させたのです。西ゴート族はクロヴィス1世にレンヌ
・ル・シャトー村まで追い詰められていたのですが、西ゴート族
を取り込むことで、その統率力は現在のフランス全域に拡大し、
ローマ教会との関係も強固になることが期待されたのです。
ダゴベルト2世とジゼル・ド・ラゼは、レンヌ・ル・シャトー
のサント・マドレーヌ教会で結婚式を挙げたのです。そして、息
子のジギベルト4世が誕生します。ダゴベルト2世は、レンヌ・
ル・シャトー村で3年間暮らし、アウストラシア王になります。
しかし、聖ウィルフレッドには大きな誤算があったのです。肝
心のローマ教会との関係がうまくいかなかったからです。という
のは、西ゴート族はローマ教会から見ると異教的なアリウス派に
近い考え方を持っており、ダゴベルト2世も同じ考え方であった
からです。既に述べたようにアリウス派は、イエスは普通の人間
であり、他者と同じように生まれたと主張する一派です。
このようなローマ教会との不協和音を敏感に感じ取って、当時
アウストラシア国の宮宰職――宮内行政長官をしていたピピンは
部下に命じてダゴベルト2世が狩猟中に眠っているところを目を
突いて殺害し、あわせて家族全員を殺すというクーデターを敢行
したのです。
ダゴベルト2世の死によって、メロヴィング家の時代は実質的
に終止符を打ったようにように見えたのですが、王位をはじめと
する地位は、その後100年近く存続したのです。つまり、メロ
ヴィング朝の王位はそのままだったのです。
それは、クーデターを起こしたピピンのとった対応によるので
す。ピピンは、王の死によって、自分の息子であるシャルル・マ
ルテルを軍の指導者の地位には就任させたものの、彼自身は王位
を奪取しなかったのです。おそらくピピンは、王家の血脈として
長く継承されてきたメロヴィング家の権利に敬意を表しており、
自らが王位に就くことを躊躇したものと考えられます。
しかし、メロヴィング朝の最後の王ヒルデリヒ3世のとき、大
宰相の地位にあったピピン3世は、使節団を率いてローマ教皇に
会い、誰が王になるべきかを尋ねて、教皇の同意を得るのです。
その結果、ヒルデリヒ3世は修道院に送られ、その3年後に死亡
します。ヒルデリヒ3世には後継者はなく、メロディング朝の炎
は燃え尽きたといえます。
754年にピピン3世は王位に就き、シャルル・マルテルの名
をとったカロリング朝がはじまるのです。しかし、戴冠式の直前
にピピン3世はメロディング朝の王女と結婚しています。つまり
王位の正当性を主張する何かが欲しかったものと思われます。そ
して、今までメロディング朝の王だけに認められていたローマ帝
国皇帝の称号も800年に与えられているのです。
これはクロヴィス1世がローマ教会との取引で、メロディング
朝がローマ教会のために力を尽くすことと引き換えに、新たなロ
ーマ系キリスト教帝国をあらわすローマ帝国皇帝の称号をもらう
約定を交わしていたのです。
しかし、その後もカロリング朝の王たちは、正当性を確保する
ためか、メロヴィング家の王女を結婚相手に選んでいるのです。
このようにしてイエスに直結するダヴィデ家の系統は、旧約聖書
の時代から正当に保持していた王座への復権を果たすことになっ
たといえるのです。
ここまでの話と「ダ・ヴィンチ・コード」の原作との関係です
が、シャトー・ヴィレットにおける宗教問答で、ティーピングが
「ダゴベルト2世の話を聞いたことがあるかね」とソフィーに聞
き、ソフィーに説明する次の部分があるのです。
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「メロヴィング朝の王よね。寝ているとき目を刺されたんじゃ
なかった?」「正解だ。ヴァチカンがピピン2世と共謀して暗
殺した。7世紀後半のことだ。ダゴベルトの死によって、メロ
ヴィング朝は途絶えかけたが、幸いにも息子のシギベルト4世
がひそかに難を逃れて王家の血を伝え、後にそこからゴドフロ
ワ・ド・ブイヨン、つまりシオン修道会の創始者が生まれた」
――ダン・ブラウン著/越前敏弥訳
『ダ・ヴィンチ・コード(中)』より。角川文庫14158
−−−−−−−−−−−−−−− ・・・・ [D−コード27]
≪画像および関連情報≫
・メロディング朝年代記
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「フランク族」とは「自由にして勇敢なる者」の意である。3
世紀中頃の彼等は大きく2群にわかれ、1群はライン河下流域
に住んで「サリ(塩の意)支族」、1群はライン河中流域に住
んで「ブアリ(河の人の意)支族」と呼ばれていた。彼等の一
部はローマ帝国軍に雇われて主にライン河東岸の警備にあたっ
ていたが、5世紀頃に現在のベルギーから北フランスにかけて
勢力を拡大し、各地にいくつかの小王国を建設した。伝説によ
れば、現在の北フランス地域に初めて地歩を固めたフランクの
王はファラモンなる人物であったとされるが、その実在には疑
問がもたれ、その子でサリ系フランク人の王となったクロディ
オン、さらにその子メロヴィクあたが記録で確認出来るフラン
ク最古の王であるとされている。メロヴィクの子孫が継承した
王朝がつまり「メロヴィング朝」である。
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