2006年08月09日

キリスト教の創立者/コンスタンティヌス(EJ1895号)

 コンスタンティヌス帝について調べてみると、この皇帝は大変
聡明で、優れた政治家であったことがわかってきます。当時ロー
マ帝国は西と東があり、西はコンスタンティヌス帝、東はリキニ
ウス帝です。
 あるとき、コンスタンティヌスはリキニウスと話し合い、キリ
スト教徒の迫害をやめないかと提案し、リキニウスはそれに同意
したのです。そのときリキニウスは「変だな」と感じたのです。
どうしてかというと、そのときキリスト教徒の迫害など、ほとん
どなくなっていたからです。
 しかし、やがてリキニウスはコンスタンティヌスの意図を知る
ことになります。コンスタンティヌスは、リキニウスがこの約束
に背いたことを理由に、リキニウスを殺害してしまったのです。
帝国の基盤を磐石なものにするには、ローマ帝国はひとつである
必要があるとコンスタンティヌスが考えたからです。
 そして、宗教の統一化を実現するために、十分に練ったシナリ
オを書き、慎重な根回しと、巧みな演出のもとに、ニケーア公会
議を開催したのです。そして、ローマ帝国の国教としてキリスト
教を採用したのです。西暦325年5月20日のことです。
 この会議で制定されたのは「ニケーア信経」――これは、当時
の多種多様な教義を統一したもので、現在でもキリスト教権力の
基盤となっているものを定めたのですが、その中心的主題は、イ
エスは神か人かであり、もし神であるというなら、その神性の本
質とは何かを定めたものだったのです。さらに、異端者に対する
対応についても定められたのです。
 ところで、このコンスタンティヌスはローマの国教であったソ
ル・インウイクトウス――「不滅の太陽」の大神官を務めていた
のです。これは、太陽崇拝の宗教で、当時より100年くらい前
にシリアからローマに伝えられたのです。さらに別の太陽崇拝の
カルトといわれるミトラ信仰――この信仰もローまでは広く支持
されていたのです。
 「不滅の太陽」と「ミトラ信仰」、それに「キリスト教」――
これらはどの視点から見ても共通点が多く、一本化は可能である
――コンスタンティヌスはそう見抜いたのです。
 コンスタンティヌス自身は、あくまで「不滅の太陽」の大神官
であるという前提に立ち、もし、イエス・キリストに神格を与え
れば「不滅の太陽」と直接関連づけて、イエス・キリストは「不
滅の太陽」の現世の代表であるという理論武装をして会議に臨ん
でいるのです。
 コンスタンティヌスにとって、キリスト教の神とは「不滅の太
陽」という宗教から見た神でしかなかったのです。したがって、
キリスト教には太陽崇拝の痕跡が色濃く残っているのです。「ダ
・ヴィンチ・コード」の原作で、ラングドンは次のようにいって
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 キリスト教で使われる象徴に異教の痕跡が残っているのはまぎ
 れもない事実なんだよ。エジプトの太陽神の頭上にある円盤は
 カトリックの聖人の光輪と化した。イシスは奇跡的な方法で息
 子ホルスを身ごもったが、その授乳の姿を描いた壁画は今日は
 の聖母子像の原型となっている。カトリックの典礼のほとんど
 すべての要素は――司教冠や祭壇や栄誦、そして、「神を食べ
 る」行為である聖体拝領も――かつての神秘的な異教から受け
 継がれたものだ。             ――ラングドン
             ――ダン・ブラウン著/越前敏弥訳
  『ダ・ヴィンチ・コード(中)』より。角川文庫14158
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コンスタンティヌスは、メシアの到来を待つというユダヤ教の
伝統をうまく利用し、自らがメシアにふさわしいと君主の神格化
を図っているのです。すなわち、メシアとは、治癒力をもって世
の中の悪を正す者をいい、それは君主たる自分にほかならないと
主張するようになります。そしてローマ教会は、そうしたコンス
タンティヌスの行動を容認したのです。
 したがって、われわれの知っているキリスト教の創立者は、一
世紀のイエス・キリストではなく、四世紀のコンスタンティヌス
ということになるのです。「ダ・ヴィンチ・コード」の原作でも
リー・ティーピングは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メシアたるキリストの存在は、教会とローマ帝国が存続してい
 くために不可欠だった。初期の教会は従来の信者からイエスを
 まさしく奪い、人間としての教えを乗っとり、神性という不可
 侵の覆いで包み隠し、それによって勢力を拡大した、と多くの
 学者が主張していいいる。     ――リー・ティーピング
             ――ダン・ブラウン著/越前敏弥訳
  『ダ・ヴィンチ・コード(中)』より。角川文庫14158
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 後にローマ教会は、コンスタンティヌスの死後、ローマ帝国の
権能――君主の選出や否認の権利を含む権能はすべてローマ教会
に移転したと主張するようになり、教会が絶対的な権力を持つよ
うになっていったのです。これは、後に「コンスタンティヌスの
寄進状」として物議をかもすことになります。次の一文はローマ
教皇グレゴリウス9世が神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世
に宛てた手紙の一節です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 使徒の長の代理者として、聖職の帝国と全世界の魂を統治して
 きた(ローマ教皇は)、全世界の万物万人をも支配すべきであ
 り、彼が正義の手綱で地上のものを管理していることを考えれ
 ば、神によって精神的な全てを担当するよう任命されたに違い
 ない。コンスタンティヌス帝はその誓いによって自らを卑下し
 帝国の記章、ローマ市国・公国とともに、帝国をローマ教皇の
 永遠の監督に託した・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−・・・・ [D−コード13]


≪画像および関連情報≫
 ・ニケーアの場所はどこか
  ヘレニズム時代に「アンティゴニア」と呼ばれたこの街は、
  B.C.300年頃にアレクサンドロス大王に占領され、手柄
  を立てた将軍の妻の名を取って「ニカエア(ニケーア)」と
  名付けられた。後に小王国の首都として栄え始めたニケーア
  は、A.D.1世紀ごろからローマ帝国属州の首都となった。
  4世紀ごろ、ローマは領土の統治のために、いくつもの分派
  に別れていたキリスト教を統一しようとした。そこで325
  年に、300人の僧を集めてニケーアで宗教会議を開き、ア
  タナシウス派(三位一体説)を正統と認めた。しかしその後
  も各教派が争い続け、8世紀に至るまで何度もこの街で会議
  が開かれた。第4次十字軍がコンスタンチノープルを占領し
  た13世紀、ビザンチン帝国は一時期ニケーアに逃れ、再び
  コンスタンチノープルを奪回する50年後まで、ここに首都
  を置いた。
   http://www.asahi-net.or.jp/~qn9e-nkd/iznik/iznik.htm

1895号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ダ・ヴィンチ・コード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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