は、小沢氏の著書『日本改造計画』(1993年/講談社)の中
にいくつかのヒントがあります。
小沢氏はこの本で「政府は国際政治の舞台では、せいぜい民間
の『企業弁護士』的な役割しか期待されない」と述べているので
す。この「企業弁護士」とは何でしょうか。
企業弁護士について小沢氏は次のように述べています。本が出
されたのが、1993年(平成5年)であることを前提に読んで
いただきたいと思います。
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日本が「大国」の一つに数えられる存在になったことは誰も否
定しないだろう。これまで幾度となく国連安保理の非常任理事
国となり、先進国首脳会議(サミット)のメンバーでもある。
何が現在の日本を「大国」にしているのか。技術力であり経済
力である。ところが、その肝心の経済力は民間の手の中にあり
政府の手中にはない。政府はひたすら民間の利益追求を極限ま
で可能にすることを求められる。政府が果たすべき仕事は「企
業弁護士」的な役割なのである。もし政府や官僚組織が公平な
調整者としての立場をきっちり示さなければ、この傾向はます
ます強くなるだろう。やがては政府や官僚組織は、個別の利益
の擁護者、代理人、あるいは極端な場合には「人質」にされて
しまう。こうなると、何が国益かという問題が出てくる。
──小沢一郎著/『日本改造計画』/講談社刊
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小沢氏は同書でこうも述べています。既に中国に抜かれ、世界
第3位になってしまったものの、日本が経済大国といわれるまで
に経済成長できたのは国際社会が存在していたからである、と。
自由と民主主義という共通の価値観によって貫かれている国際社
会のおかげで日本はそのメリットを受けて成長してきたのです。
したがって、日本がこれからもさらに発展したいのであれば、
国際社会の理念にしたがって行動し、その発展のために協力する
必要があると小沢氏は強調するのです。
しかし、湾岸戦争で日本は何ができたのかについて、日本人は
考えるべきであると小沢氏はいいます。湾岸戦争のような問題は
緊急な決定を次々としなければならないのです。しかし、現在の
日本は首相のイニシアチブで政策決定ができないのです。そこに
は大きな壁があります。小沢氏は湾岸戦争のさい、いやというほ
ど味あわされたのです。それが小沢氏をして政治改革に立ち上が
らせるきっかけになったのです。湾岸戦争が日本の政治・行
政のあり方に多くの欠陥があることを示したからです。
小沢氏は自民党を離党し、与党となった細川連立政権で政治改
革の第一歩になる「政治改革四法」を成立させ、野党に転じてか
らも自自連立で国会改革の一部を実現しています。これについて
は既にここまで述べてきていることです。
細川護煕氏は1993年8月5日召集の特別国会で首相に指名
され、9日に細川連立内閣が発足しています。その就任演説で細
川首相は次のように述べているのです。
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この内閣は政治改革をやるために生まれた。年内に政治改革関
連法案を成立できなければ、私は責任を取る。 ──細川首相
──渡辺乾介著/小学館/『小沢一郎/嫌われる伝説』より
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何と思い切りのよい、責任感あふれる発言でしょうか。小沢氏
はこの発言を聞いて感激し、「さすがだ!歴代の総理大臣で、こ
れだけのことを言った人はいない」と最大級の賛辞を贈ったので
す。結果はどうなったかというと、年内にはさすがに無理でした
が、次の年に「政治改革四法」は成立しているのです。
その後細川氏と小沢氏の仲は不仲になったとされていますが、
2010年9月の民主党代表選で、既に政治家を引退している細
川護煕氏が、小沢支持の運動を続けていたことを知る人は少ない
と思います。日本のために小沢総理を何とか実現させたいと細川
氏は考えていたからです。
自民党は当時の圧倒的な細川人気に危機感を感じ、細川氏のス
キャンダルを追及し、退陣させています。そのとき官僚組織が少
なからず、自民党に協力しているのです。このように小沢氏が少
しでも台頭すると、自民党と官僚組織は手を組んで小沢潰しに動
く体制をとってきているのです。
2004年5月10日、民主党代表の菅氏は年金未加入問題で
辞任しています。実際にはそういう事実がなかったことがあとで
判明するのですが、このとき菅氏はあっさりと辞任したのです。
そこで民主党は、後任に代表代行の小沢氏を立てようとしたので
す。小沢氏もそれを受けるつもりで準備していたのです。
ところが、「小沢一郎に年金未加入期間あり」という情報が流
れたのです。国民年金が任意加入だった80〜86年と古い衆院
議員当選以前の11ヵ月間が未加入であったというのです。
すべて加入義務のなかった時期であり、何の問題もないので周
辺は小沢氏に代表に就任するよう求めたのですが、小沢氏はその
情報発信源を独自のルートで調べたところ、それが首相官邸であ
ることがわかったのです。
それがわかると、小沢氏は即座に代表を辞退しています。もは
や周囲がどのように説得しても、小沢氏の決断は動かなかったの
です。小沢氏はこれは「小沢潰し」であり、その包囲網が敷かれ
ていることを察知したからです。
相手は誰か。それは自民党時代から反小沢包囲網を敷き、その
司令塔的存在であったYKKの1人である小泉純一郎氏であり、
そのとき首相の地位にあったのです。当時小泉首相は「消えた年
金問題」をかわすため、閣僚をはじめ、与野党の政治家の年金加
入状況を調査させ、その結果を政治的に利用したのです。
── [日本の政治の現況/40]
≪画像および関連情報≫
●細川護煕首相退陣のいきさつ
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連立の一致点であった政治改革が曲がりなりにも実現したこ
ともあり、政権は国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を
失っていく。早期からあった「一・一ライン」とさきがけ代
表の武村官房長官との対立も、政権運営の手法や政治改革の
方法などに加え税制改革をめぐって深刻化。武村は悪化が明
らかになってきた景気へのてこ入れを優先し政治改革法案は
継続審議にすべきと主張する自民党に同調し、幹部とも頻繁
に接触していた。また小池百合子は、北朝鮮有事に際し、ア
メリカ側から北朝鮮に宥和的な社会党や武村の存在を問題視
されたのも、武村更迭の一因だと後に述懐している。
──ウィキペディア
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細川 護煕氏